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名前も知らない、わたしを叱ったあのお兄さんのことは一生忘れない

他人に叱られた経験はあるだろうか。今考えると、非常にレアな体験だったな、と思う。そもそも人に「怒られる」のではなく、「叱られる」ということは珍しく、そこに愛がないとできないと、わたしは思う。

そう思うと、あの時わたしに叱ってくれた、小学校6年生のお兄さんには、今でも頭が上がらないし、素晴らしい体験だった。

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わたしの小学校では、1年生の子と高学年の子を一緒に遊ばせるプログラムのような時間があった。勝手に振り分けられたグループ同士をうまくマッチングさせて、決められた時間内で交流を深めるという活動だ。1年生だったわたしは、すべてが新鮮だった。ぼんやりとしか覚えていないけれど、毎日ワクワクして楽しかった。

そこで、わたしは彼と出会った。もう、顔も、名前も覚えていないけれど、かなりガタイが良くて、小さいわたしから見れば大人のような人だった。

自己紹介をして名前を覚えて、いざ遊ぼうというときに、わたしは彼を見て思わず「怖そうなお兄さん、」と呟いてしまったのだ。お兄さんはすかさず「こら、人を見た目で判断しちゃいけないよ」と言った。わたしはびっくりして、泣きそうになるのを堪えて、お兄さんをじっと見た。

周りにいた彼と同級生のお姉さんが「ねえ、やめなよ」と止めに入っていたけれど、お兄さんは「人を見た目で判断するのはよくない。まだ僕たちは何も話してないんだ。だから良い人か悪い人か、怖い人か優しい人かなんて、わからない。そうだろう?」と言った。

わたしは怖くて、「はい、」と言った。「わかったなら、良いんだ。じゃあ遊ぼう」と、私たちは遊び始めた。

わたしとお兄さんは、この時間仲良く遊んだ。それからは、学校の靴箱で出会ったり、全校集会で見かけたり。それ以上、関わることがなかった。

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6歳の時の記憶なんて、もうほとんど残っていない。だけど、今思い出すだけで、涙が出るほど嬉しい出来事は、他にないと思う。お兄さんは、赤の他人のわたしに、真っ当なことを教えてくれた。たった12才、小学校6年生だったのに。今考えれば、本当に人としてすばらしい、よくできた子だったと思う。

その後、お兄さんがどんな道を歩んで、どんな生活をして、どんな風に笑っているかは、わたしは知らない。もう、名前も、顔も覚えていないから、探すにも探せない。

だけど、わたしは、あの時お兄さんに叱られたことを、今でも大切な思い出として、心の中に閉まってある。きっと、さっきの野球の男の子を見たときのように、これからもふと、思い出して教訓にしていくのだろう。

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今、彼はどんな人生を歩んでいるのか。もし、会えることがあるなら、全力で感謝を伝えたい。これまでの人生で何度となくこの「お叱り」に助けられたこと、そして、わたしの人生に影響を与えてくれてありがとうと、感謝を伝えたい。

人は、人生で3万人の人と出会うという。その中で、深い関係になれるのはたったの300人だそうだ。このお兄さんは、300人の一人ではないけれど、わたしの人生の中で数少ない、幼いわたしに影響を与え、ちゃんと正しい道を示してくれた人の一人だ。

きっとわたしは、この先結婚しても、子供が生まれても、定年退職しても、死ぬ間際でさえ、この「お叱り」を思い出すのだろう。