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【2】わたしは、わたしの豊かな感情に殺される。

楽しい、明るい、優しい、嬉しい。
可愛い、素敵、かっこいい。
癒される、幸せ、満たされる。

わたしはなんて、豊かな感情に恵まれているんだろう。

ひとつひとつの小さな感情たちを、いとも簡単に見つけて気付いて、無意識のうちに浴び続けている。

それはきっと、物心がつくよりももっと前から。

わたしがこの世に産み落とされるとき、神様が与えてくれたものなのだと思う。

そしてその神様のお陰で、わたしはたくさんの幸せを享受しながらこの世を生きられる、恵まれた人間だと思う。

わたしは、そんな自分の感性が好きだ。

それらを使って、大好きで大切な人たちを守ることもできる。
力となり、支えとなり、もしかしたら救いとなったこともあるのかもしれない。

もちろん、わたしは特別なわけじゃない。
だからわたしじゃなくても、力となり支えとなり、そんな風に誰かへと寄り添える人は他に山程いると思う。

そしてそんなことを分かりきった上で、神様が与えてくれたであろうこの感性が、少しでもわたし以外の誰かのためになっていることが嬉しい。

本気で、そう思っている。

しかしながら、神様は本当にすごいんだ。

辛い、苦しい、悲しい。
泣きたい、怖い、しんどい。
…消えたい。

ちゃんとこれらの感性も、わたしに与えてくれた。
見逃してしまうことのないように。きちんと享受できるように。
いっぱい、与えてくれた。

だからなのか。
わたしはただ息をしているだけで、前後左右、四方八方から、ありとあらゆる感情に心を揺さぶられている気がする。
決して避けることのできない、感情の球。
わたしが勝手に拾っているだけなのに。

もし「情緒不安定なのか?」と問われたら、「それとは全く違う」と答える。

全て、わたしの感性が勝手に享受してしまっているだけ。

誰も何も悪くない。誰かのせいでもない。

わたしが心の中でひとり、"楽しい"も"苦しい"も浴び続けてしまっているだけ。

それがなんだか無性にストレスで、悲しいだとか辛いだとかいう類のものは、一旦無視してみることにした。
勝手に集まってくるそれらの感性を、とことん無かったことにしてみた。

いつからそうするようになったのか。
自覚は全くないけれど、わたしにとっての生きる術として、知らず知らずのうちに備わってしまったものなのだと思う。

そうしたら、ふっと楽になった気がした。
別に見て見ぬふりをしても、支障なんてなかった。
むしろ生きやすくなってるかも、なんて。

だってそれでも、わたしはわたしのまま生きていられるから。

そんな風に、生きる術としてとりあえずの無視を続けてきたわたしは、たまにどうしようもなく大きな感情へ引きずりこまれることがことがある。
手も、足も、負の感情に飲まれていく感覚。

そうなった時はもう何をしてもダメで、ただただ耐えるしかなくて。ひたすらに時間が解決してくれるのを待つしかない。
何故だかはさっぱり分からないけれど、ある瞬間を境に、いきなりその感情の渦から解放される時がくるから。
わたしはそれが1秒でも早く訪れるよう願うだけ。

そういうことを繰り返していたツケなのかもしれない。
気付いて欲しい、とSOSを叫んでいた感情も感性も、わたし自身が1番分かっているのに、わたし自身が1番に存在を無視した。
そして、わたし自身が1番そのことに気付いていなかった。

だって、まだ、出来るから。
"辛い"とか分からない。"苦しい"とか分からない。

確かにちょっと疲れたけど、これは"しんどい"じゃない。
わたしはまだ出来る。まだやれる。
ずっと本気でそう思っていたから。

わたしはどうしても、物事の最中に"頑張っている"と思えない。

気が付いたらなんだか訳もなく涙が出てくるようになって、気が付いたら朝起きると絶望感でいっぱいになって、そうなって初めて、「もしかしてわたしは頑張ってたのかな。」と感じることができる。

"わたしは、わたしの豊かな感情に殺される。"

わたしを追い詰めているのはいつだってわたしで。

わたしを幸せにしているのも、いつだってわたし。

豊かな感情によって殺されてしまったわたしは、一体どこへいくのだろう。

わたしはもう、殺されたくない。

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