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幕末堕天譚 32【小説】

あらすじ
幕末の江戸で新興宗教の神をしている青年が、神をやめるため江戸から逃げます。

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 歩けば動悸がする。頭は常に鈍く痛む。全身の骨がきしむ。両肩は板のように張っていて、すべてが重い。
 目の下には真っ黒な影があり、まるでドクロのようだ。かぐやは顔上部を隠す面をつける。口元だけでも驚くほど老いているのが分かるだろう。こんな姿を雪緒にだけは見られたくなかった。
 雪緒は見世に来るだろうか。来ないだろうか。来るはずだ。
 命は強く信じていた。
 抜目はかぐやに驚くほど美しい衣装を用意していた。男でも女でもなく、人智を超えた存在がまとう衣のように見えた。羽織は風になびくとうすく輝いた。かぐやになった自分は死にかけた老人のようには見えず、それが嬉しかった。
 最後に力を使った日、心臓の鼓動がおかしくなった。直後、小十郎が命を迎えにきた。それから一度も力を使っていない。もう一度力を使えば、今度こそ死ぬかもしれないと予感していた。
 最後の力を使わずに、残りわずかな時間を雪緒と過ごすことができればと思っていた。
 命は今、自分が何を望んでいるのか分からない。
 雪緒が隣にいないのであれば、望みはもう何もない。新しい望みが形作られるだけの時間もない。呆然と、茫漠とした空虚のなかで、かぐやとして死のうと思った。
 命は自分のことを罪人であり神であると思っていた。
 人々の切実な希望を裏切り、騙してきた。土之助が訴えた少年のような被害者を生んだ。命の嘘はどれだけの人を地獄に落としただろう。土之助はかぐやの真実を知ることで神を失った。土之助が『かぐや』にどれほど重い希望を託していたか、命は知っている。
 同時に『かぐや』は大衆のための神であった。命には神になれるだけの力があった。人ならざる力があった。自分は真実として神であったのではないかと、命はそう思っている。
 舞台の中心で幕が開くのを待つ。暗闇の外に大勢の人の気配を感じる。
 この力があって幸福だった。かぐやは命の化身であった。
 幕があけば音楽が始まり、ろうそくに火が灯る。人々は歓声を上げる。その瞬間、命はいつも幸福だったかもしれない。貧しい身なりをした農民の男、流行りのかんざしを刺した町娘、腰に刀を差した少年、赤ら顔をした男たち、女、老女と老爺。彼らの目は輝きとともに命を映し出す。
 雪緒がいないなら、神として死んだっていい。
 歓声と悲鳴を浴びる。顔を隠した小十郎が口上を述べ、舞台に老婆が上げられる。隣には彼女の息子だろう、壮年の男が付き添っている。丈の短い着物、薄汚れた股引きを履いていて彼らが百姓だというのが分かった。
「おかあは、夜も昼も、ずっと痛い痛いというんです。疝気がからだ中に回ったんだ」
 皺で目が隠れ、前が見えているのかさえ定かでない老婆はゆらりゆらりと頭を揺らしてかぐやを探した。
「痛い痛いと、地獄の苦しみです。その声を聞いてると私の頭までおかしくなる」
 ほんのわずかに開いた目でかぐやを捕らえた老婆は両手の拳を握りしめて「うぅ!」と唸った。
「かぐや様、どうぞお救いください」
 かぐやは老婆の頭に手をかざそうとした。その手のひらを老婆がぎゅっと掴んだ。指が折れそうなほど強い力で。命は一瞬顔をゆがめたが、かぐやは老婆の手を握り返した。
 おれはこの人たちを救うことができる。
 命は最後の力を使おうとした。
「この大ウソつき!」
 どこからか少年の声が聞こえ、パチャンと頭に冷たいなにかが当たった。
 眉の上から垂れてくるものをぬぐう。卵だった。中に小鳥ができかけていて、足のようなものが見えた。
 舞台の上にいつか見た少年が上がってくる。抜目が少年を阻止しようとするが、幾人かの町民が抜目の前に立ちふさがった。
「オレの足は、三年前、最後のかぐや見世で折られた!覚えてる人はいないか!?」
 少年は大声で民衆に向かって問うた。「見た!」「覚えてる!」「あの小僧か」と声が上がる。
「かぐやに治してもらったんだ!」
 人々はざわめき、命は少年が何をしようとしているのかを悟った。
 少年は杖をついて舞台の中心に立った。少年の右足は奇病な方向に曲がっていて、地面についていない。
「でも嘘だった!痛みがなくなっただけ!俺は一生自由に歩けない!」
 不思議なほど、小屋の中が静寂に包まれた。
 誰もが、誰かの一言を待っている。
「どういうことだ?」「かぐや様の力がウソだって?」「信じられない」
 困惑とざわめきが広がった。
 少年は一歩前に出て、大きな声で言った。
「証明する」
「誰でもいい!ケガを治してもらいたいやつ出てこい!」
 抜目と組み合っていた男の一人が叫んだ。かぐやに選ばれることを待ち望んでいた民衆だが、異常な事態に戸惑い誰も出てこない。沈黙が続くなか、一人の少年が声を上げた。
「正太、待ってくれ」
 声を上げたのは土之助だった。
 正太に協力する大人の一人が土之助を舞台に上げた。
 土之助は正太に向き合った。土之助の目は正太に何かを訴えていた。
「命を責めないでやってほしい」
 そう言って、土之助は両ひざを舞台について、土下座した。
 土之助は一度も命のほうを見なかった。
 命には目の前の光景が信じられなかった。固まっている命、頭を下げたままの土之助。一番早く動き始めたのは正太だった。
 正太は土之助ではなく、舞台に注目している民衆のほうを向いて語り始めた。
「この少年の足は幼い頃牛車にひかれて粉々になった。かぐやが嘘つきでないのなら、少年の足を治せるはずだ」
 正太とともにやってきた大人たちに抑えられていた抜目はいつのまにか居なくなっていた。舞台上にいるかぐやと正太と土之助、そして舞台を見上げる民衆たちの空気が張りつめていく。
 民衆はまだ事態をのみ込めていなかった。
 けれど人々の中には、かぐやはペテン師なのではないかという疑惑の種が芽生えつつあった。おかしな方向に曲がった足をひょこひょこと動かして歩く正太の姿には説得力があった。
 彼らはみなかぐやに人生すべての望みを賭けていた。
 正太は土之助と命を前に押し出した。人々はみな、かぐやの一挙一動に重い視線を投げかけている。かぐやは、神の力を証明しなければならなかった。
 土之助は泣きそうな目で命を見た。
 命の心は不思議なほど凪いでいた。命はもう神でいなくてもいいのだった。
 怒り狂った民衆に......
 命は舞台に見入る民衆を見渡した。
 民衆の目には、かぐやが信徒一人一人の顔を確認しているように見えた。
 しばらくの時間が経ったあと、かぐやは土之助に向き直った。
 かぐやの目が濡れていることに、土之助だけが気づいた。
「私は彼を治せません」
 かぐやは膝をつき、土之助に向かって両手と頭を垂れた。それから顔を上げて、大きな声で言った。
「嘘をついていました。わたしには治癒の力などありません。痛みを消すだけです。.......ごまかしの力です」
 小屋は水を打ったように静まり返った。長い沈黙があった。
 それから、せき止めていた水が決壊するときのような地響きが起こった。小屋は怒号と悲鳴で満たされた。「うそつき!」誰かがそう言った。泣き崩れる者もいた。小屋に溢れかえっていた人々は舞台へと押しかけた。かぐやの告白を聞いて腰がくだけたようにしゃがみこんだ女は民衆の波に押し倒され、その足に踏みつけられて息ができなくなった。
 人々は舞台に手をかけ、壇上のかぐやに襲いかかろうとした。正太の仲間が正太を抱えて逃げ出そうとした。正太は土之助の手をとって一緒に行こうと促したが、土之助は目でその誘いを断った。正太は土之助を置いて去っていった。それは一瞬の出来事だった。
 迫りくる民衆の前に、土之助と命だけが残された。
 土之助が命をかばうように前に出て、「待ってくれ、待って、命はわる....」と言ったところで誰かが土之助を押しのけた。土之助はよろめいて、膝をついた。あっという間に土之助の姿は見えなくなった。人々の足の間に消えていなくなった。
 命は叫んだ。狂人のように叫んだ。きゃあああああ、という悲鳴だった。糸が切れた。糸が切れた音だった。
 信者たちが命に手をかけようとしたそのとき、命の目の前に抜目一族が踊り出た。
 刺股や袖がらみなどの武器を持ち、押し寄せる民衆に突きつけた。
 かぐやのすぐ前にいた人々は後ろから押されて止まることができない。武器の先端が身体に強く押し付けられ、何人かがこの世のものとは思えない悲鳴を上げた。
「命を守れ、絶対に死なせるな!絶対に死ぬな!」
 抜目一族の頭領、伊吹の声が響き渡った。抜目たちは黒子の面を外していた。
 うううう、とうめき声を上げる命を小十郎が抱きかかえた。そうしてかぐやは小屋を出て、最後の見世物が終わった。

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