幕末堕天譚 31【小説】
あらすじ
幕末の江戸で新興宗教の神をしている青年が、神をやめるため江戸から逃げます。
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***
健太郎は命を群青寺まで送った。健太郎は寺までの道をよく覚えていた。
命は何も話すことができない。これまで命の足を立たせ、命を命たらしめていた魂が砕かれてしまったかのようだった。寺の縁側に命を座らせた。命は頭を下にしてうなだれている。
あまりに細い命を支え、健太郎はなぜ命が江戸に帰ってきたのかを分かってしまった。
命は雪緒に会いにきたのだ。残りわずかな時間を雪緒と過ごすために。
どうすればいいのか分からなかった。
数か月前、日奈子は雪緒の子を産んだ。二人には未来がある。命にはもうほとんどない。雪緒は命に会うことを望んでいるだろうか。
命が群青寺にいることを雪緒に知らせるべきだろうか。
浅草寺で配られているかぐや見世のビラを見た日奈子はどんな思いでいるのだろうか。
命は雪緒に会って、いったい何を望むのだろうか。
憔悴している命の前で、健太郎は立ち尽くした。
「健太郎殿。お帰りください」
小十郎という男がいつのまにか命の隣にいた。
「あとはわたくしが」
男はそう言って命の肩に手を置いた。命はその手にほんの少し体重を預けた。
健太郎の心に得体のしれない反発心が湧き上がった。
そこにいるのはお前じゃない。命の背を支えるのは。
「かえってくれ」
命はまっしろな顔をして健太郎を見上げていた。
「ありがとう。会えてよかった...」
健太郎は言葉を返すことができなかった。
群青寺を出て、健太郎は空を仰いだ。神よ。神よ、僕たちに与えられるのは喜びと同じだけの苦痛でしょうか。彼は、僕の友は、なぜあんな力をもって生まれてきたのでしょうか。なぜ僕と同じだけの庇護をもたず、生きることになったのでしょうか。
なぜ僕の妹は傷跡を受けたのでしょうか。
僕は一体、何をすればいいのでしょうか...
健太郎の問いに答える者はいなかった。
祭りばやしの笛の音が聞こえる。
土之助は片足を引きずりながら浅草寺の人混みを抜けた。ずいぶん久しぶりに通る道を歩き、ある場所へ向かった。土之助は命に伝えなければならないことがあった。
群青寺は寺の密集地の端にあった。群青寺までは、寺と長屋が立ち並ぶ門前町が続く。群青寺を境にして、浅草田んぼが広がっている。
土之助は迷わなかった。命は寺の縁側に膝を折り曲げて座っていた。あまりに細い首を見て土之助の心臓が鳴った。
言葉を発することができず、土之助は命の目の前まで近づいた。それでも命は土之助に気づかない。土之助の声は詰まっていたが、なんとか彼の名前を読んだ。
命は顔を上げ、そして土之助を見て、驚き、顔を歪めて手と腕で自分を隠してしまった。
「命」
土之助は命を責めに来た。それなのに、あまりに弱く、細くなってしまった姿を目の当たりにして、振り上げた拳を叩きつける気持ちがなくなってしまった。命はこんな姿になって、膝を抱えて泣いている。
「おれを責めないでくれ...」
そういって、土之助の顔を見ることもできずに泣いている。
土之助はどうしても命に伝えなければいけないことがあった。
「『かぐや』が最後に子どもの足を治したの、覚えてるか?」
命は呼吸を止めた。覚えていないかもしれない。もう何年も前のことだ。
「あいつ、歩けなくなったんだ。かぐやに治してもらったって、折れた足で動き回って。痛くないのに歩けないって言って。医者に行ったら、骨がぐちゃぐちゃになってるって。なんで安静にしなかったんだ。じっとしてたら、治るケガだったって...」
命は顔を上げた。土之助は、人間のこんな表情を見たことがなかった。
怒りでもなく、許しを請うのでもなく、悲しみでもなく、すべてを諦めたような、痛みを隠している顔だ。
「命を責めに来たんだ」
「俺はもう死ぬから。死んで償うから...」
許してくれないか。
土之助は命が言えずにいる言葉の先が分かった。カッと頭に血が上った。
「許せるわけないだろ!あいつは今溜めにいるんだ!」
浅草溜めは罪を犯した未成年者や重病人が溜め置かれる場所だ。土之助は、溜めに連れて来られた少年に見覚えがあった。その少年は土之助と同じく足を引きずって歩いていた。
「死んで償って何になる!正太の足を戻してくれよ!」
命は頭を抱えて下ろした髪を握りしめた。
「悪かった。本当に悪かった...」
「謝って済むのか!死んで済むもんか!...命は正太を地獄に落としたんだ!」
不具として生きる中で積み重なった何かが爆発した。土之助は正太のために怒っているのではなかった。命の行いに対して怒っているのでもなかった。ただ土之助は、誰かを痛めつけずにはいられなかったのだ。そこに命がいた。
土之助はひょこひょこと命に近づいて、肩を掴んだ。命は頭を抱えてうつむいたままだ。
土之助は我に返った。
命の話は筑波から帰ってきた雪緒に聞いていた。命は生きるためにかぐやになった。そしてその生命を削っていった。多くの人の神となり、正太のような人々を地獄に落としながら。
土之助の足を奪ったのは誰なのだろう。土之助の足は、土之助が幼い頃、牛車にひかれて動かなくなった。雪緒の顔と身体に赤い斑点をつけたのは誰なのだろう。雪緒はその印を生まれたときからその肌に持っていた。
命は、その人智を超えた力がなければ今頃なにをしているのだろうか。生きているのだろうか。
土之助は何がなんだか分からなくなって、命の肩から手を離した。
唸りながら泣き声をあげる命を背にして、右足を引きずって命から逃げる。
命の泣き声がいつまでも胸に残った。土之助も、同じ声をあげて泣いたことがある。
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