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幕末堕天譚 33【小説】

あらすじ
幕末の江戸で新興宗教の神をしている青年が、神をやめるため江戸から逃げます。

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***
 抜目たちは北上し、小塚原の北西にある婀娜祇(あだぎ)山に入った。戸田川から田端村崕雪頽までを覆う巨大な山群は正体を偽って江戸に入る者、出る者の身を隠す場所として使われていた。婀娜祇山は古くから神域と伝えられており、幕府にとって不都合な山でありながらその存在を黙認されていた。
 急勾配の斜面に木々が鬱蒼と生い茂っている。婀娜祇山に逃げ込んだ者たちを見つけ出すのは困難だった。
 山の中腹に抜目たちは集まった。
 その中心に伊吹がいた。
「抜目一族を解散する」
 黒曜石のように濡れた瞳が、一族を見渡した。
「今までご苦労だった」
 小十郎は抜目一族ではない。かぐやの信奉者として雇われていただけだ。
 抜目が解散するなど一言も聞いていなかったが、抜目たちの顔を見ると、どうやら皆了解しているらしい。
「目のない者は目のある者を守って生きろ。十分な金は渡したな」
 十五にも満たない若者たちがそこにいた。抜目一族とはこんなにも数が少なかったのか。滅びつつある一族だったのかと小十郎は初めて気づいた。
 数人の額にある目玉がぎょろりと小十郎をねめつけた。
 一人で立ち去る者、二、三人の組になって立ち去る者たちがいた。
 額に目を持って生まれてくる者たちを抜目と呼ぶ。彼らは迫害され、この幕府の世において最下層の扱いを受けた。古くは多くの抜目が見世物小屋で働き、過酷な労働を強いられた。目を持った者たちは子を産むことを厭うようになり、一族は徐々に数を減らした。
 幕府と長州による二度目の戦争が終わったばかりである。二百六十年にわたり続いた幕府の根幹が揺らいでいる。長州と薩摩が結び、幕府に逆らえば、まったく新しい秩序が誕生するだろう。そのとき、抜目一族は存在していないほうがいい。
 目の無い者は目のある者をかくまい、抜目の存在をこの世から消す。
 そうして初めて彼らは抜目という業を捨てることができる。
 かぐやは、そのための手段だった。金を産む鳥だった。
 命を拾い、命の力を知ったそのときから、伊吹は今日という日を思い描いていたのだろう。
 命は小十郎の腕のなかで震えていた。真冬の乾いた空気が木々の間を縫って吹き込んでくる。命が震えているのは強い東風が原因ではないだろう。
 抜目たちがいなくなったあと、伊吹は命に近づいた。
 命はなんとか正気を取り戻そうとしながら、伊吹を見上げた。
「仕事は終わりだ。今まで悪かったな」
 伊吹の謝罪の言葉を聞いて、命は目を見開いた。腕の中の命の身体がかっと熱くなるのが分かった。
「お、終わり...?終わりってなんですか。かぐやは」
「もうかぐやは必要ない。お前がかぐやになる必要もないんだ」
「なんで...」
 命の消えそうな声とは反対に、伊吹の声は強く揺るがない。
「一族に必要な金は稼ぎ切った。お前の力がなければ不可能だった」
「俺は、俺はもう死ぬんですよ」
 伊吹と命は一体どんな関係だったのだろう。命は寒さではないもので震え続けている。
 伊吹の目と声は揺るがない。しかし、命に対して切り捨てるような冷たさはない。
「...ああ。お前には悪いことをした」
 謝罪の言葉を受けて、命は俯いた。謝罪の言葉が命の寿命を伸ばすことはない。
 命の身体を元に戻すわけでもない。
 謝罪したかぐやを責めた民衆は、今の命と同じように、命を許さないのだろう。
「なんで、俺は一体、何を...」
 自問を繰り返す命を一瞥して、伊吹は立ち上がった。
 小十郎に視線を映す。
 お前は命についていくんだろうという視線を受けて、小十郎は頷いた。
 伊吹は去っていった。命はもう伊吹のことを見ていなかった。
 虫の鳴き声と風の音が命と小十郎を包み込んでいた。命は呆然と宙を見ながら目を回し、脱力した身体を小十郎に預けている。小十郎は幸福だった。


 日奈子は生まれたばかりの赤ん坊を抱いていた。
 新芽のように輝く子をいつまでも眺めていることができた。ふと顔を上げると、同じように赤子を慈しむ雪緒の姿があった。二つ並べた布団の片方で、日奈子は幸福そのものの中にいた。
 雪緒は今日がかぐや見世だと知っているのだろうか。
 浅草で配られるビラを見たとき、日奈子が真っ先に気にしたのは、雪緒が『これ』を知っているかどうかだった。絶対雪緒に知らせないでくれと兄に頼んだ。日奈子と雪緒は太陽屋で働いていた。日奈子は跡取りである健太郎の補佐を、雪緒は下働きをしていた。
 生まれたばかりの真緒の世話を口実に、雪緒を太陽屋に上がらせないようにした。
 それでも風のうわさが雪緒の耳に入っているかもしれない。
 真緒の手を握って遊ぶ雪緒を見ても、彼が何を考えているのかは分からない。
 二年前、千住大橋のふもとで雪緒を見つけたときから、雪緒の本心を知れたと思うときがない。雪緒の真意の周りには分厚い天幕がかかっている。どれだけその奥を見たくても雪緒は決して幕を開けない。
 日奈子が仕事から帰ると、真緒を抱いた雪緒が家の前で待っていることがある。夕日の光が雪緒と真緒を淡い橙色に包んでいる。日奈子はその二人を見ると心臓が痛くなった。
 日奈子は雪緒を失いたくなかった。だから彼の中心を知ることができなくても、その一番近くにいられることを望んだ。
 雪緒と日奈子は茅場町の長屋に住んでいる。簡素な建物を真冬の強風が揺らしていた。
 真緒はごうごうと鳴る風の音など聞こえていないかのように眠っている。
 真緒を見ていると、日奈子はかつての自分を思い出した。
 つやつやと光り、無垢に世界を見つめている。
「雪緒!雪緒!」
 強い力で長屋の戸が叩かれた。兄の声だった。日奈子はひゅっと息を吸って、目を閉じた。
 雪緒にも、健太郎の声に反応するまで一瞬の間があった。それから、ぐっと手に力を入れて、戸を開けるために立ち上がる。真緒や日奈子の顔を見なかった。日奈子の身体から血の気が引いていく。
「すぐ開ける」
 そう言って、雪緒は滑りの悪い引き戸を開けた。
 まず健太郎の顔を見て、それから健太郎の腕のなかにいるものを見た。
 雪緒は悲鳴のような声で「土之助!」と叫んだ。健太郎は、顔がつぶれ、いたるところの骨が折れ、汚れた毛布のようになった土之助を雪緒にさしだした。
 雪緒は、灰色になった土之助を腕に抱いた。土と血と、生き物の内臓の匂いがした。
「命が、かぐや見世が、あって」
 健太郎が話し始めた。
「嘘がばれた」
 土之助は動かない。物体になってしまった身体はしっとりとして冷たい。
「土之助は命をかばおうとして」
「命は?」
 雪緒の声は落ち着いていた。命が江戸に来ていることを知っていたのかもしれないと、健太郎は思った。
「命は......逃げた。でも追われてる」
 雪緒は顔を下に向けた。息を止めているのが分かった。
 雪緒の後ろで真緒が泣き始めた。日奈子が真緒を抱いて雪緒の背に近づく。
 雪緒は土之助の亡骸を抱いたまま、振り返って日奈子を見た。
「行かないで」
 日奈子はまっすぐに雪緒の目を見て言った。日奈子はこの時が来ることをずっと恐れていた。真緒が腹の中で育ち、生まれ落ちた後も。
 雪緒の顔がぐしゃぐしゃに歪んだ。
 その顔を見て、日奈子は黙っていることができなかった。
「行くなら、もう帰ってこないで」
 行くなら、行ってしまうのなら。日奈子は雪緒に選択肢を与えた。
 腕の中の真緒はあたたかく、重かった。大きな声で泣いている。
 日奈子は真緒にもっと大きな声で泣いてほしいと思った。もっともっと大きな声で、痛みに耐えきれないという声で。この世に生まれ落ちた痛みを、この男に訴えてほしかった。
 この世に生まれ落ちた痛みを、この男は誰よりも知っている。
 それに気づいたとき、日奈子は泣きそうになったが、絶対に涙をこぼすまいと堪えた。
「ごめん」
 雪緒はそう言った。
 日奈子は雪緒がそう言うことを分かっていた。
「土之助を、頼んでいいか」
 雪緒は健太郎の顔を見て問うた。健太郎はうなずいた。雪緒は土之助の亡骸を、真緒を抱くときのように優しく健太郎に預けた。
 雪緒は日奈子の顔を見た。それから真緒を見た。
 最後はやはり日奈子の顔を見た。
「真緒を......頼む」
 土之助を健太郎に、真緒を日奈子に。そして、彼自身は命という人間の元へ行く。
 彼と命は一体なんなのだろう。何が二人を、そんなにまで結びつけるのか。
 雪緒という人間は、何もかもを捨てて、命を選ぶのか。
「行って!」
 これ以上この男の顔を見ていたくなかった。雪緒に対して愛情を感じる自分が嫌だった。
 はやく行って。見えないところへ。そうすればそれだけ早く忘れることができる。
 雪緒は日奈子と真緒に背を向けて走っていった。一度も振り返らなかった。
 周りの景色はいつもと同じだった。長屋の間にある小さな広場。家壁の泥はところどころ剥がれている。窮屈だが、西日が美しく差し込んで、帰り道を心地よい気分にしてくれる。朝に干した洗濯ものが乾いている。
 雪緒はもう二度とここへ帰ってこない。日奈子はまたここへ帰ってくる。真緒とともに生きるため。

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