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クィアと写真

2021 年度に提出した修士論文「岡部桃『イルマタル』試論-クィア写真を媒質として-」の「はじめに」「第1章」をこちらで公開します。
第1章はクィアと写真について当時の私が考える限りを書いたものです。
まだまだ不十分なところがありますが、何かの足掛かりになれば嬉しく思います。

また、修士論文の全体としては以下のようになっています。

目次

はじめに

第1章 クィアと写真
第1節 クィアという視点
第2節 「クィア写真」試論
第3節 近年の「クィアアート/写真」で語られる実践
第4節 『New Queer Photography』から見る「クィア写真」の構造
第5節 アイデンティティでの括り

第2章 岡部桃『イルマタル』
第1節 岡部桃のこれまで
第2節 『イルマタル』でのセルフ・ポートレート
第3節 変容のヌード
第4節 ゴミとガラクタ、死体と死骸、ノイズ
第5節 みんなの叙事詩

第3章 不完全であること
第1節 岡部桃の姿勢
第2節 性、ペニス、男性性
第3節 不完全な「場」としてのクィア写真

おわりに

岡部さんとの対話


それでは、以下から興味のある方はお読みください。




凡例 
英日翻訳は訳者の記載がない限りは筆者によるものである。
引用箇所の[ ]とその中身は筆者によるものである。


はじめに


 「クィアアート/写真」は現在多くの場合において作家のアイデンティティから、または作品がLGBTQ+に関連しているためにその名が付けられており、実質「LGBTQ+アート」と差異のないように使われている (*1)。
 しかし、クィアとは性的マイノリティのアンブレラ・タームという「名詞的用法」の他にも、非規範的な姿勢それ自身という「動詞的用法」を合わせ持つ。本稿では作家のアイデンティティやLGBTQ+の関連で理解されている現状と、重なりつつも少し異なった視点から「クィア写真」を考察していく。
 クィアとは常に逸脱であることで、絶えず動き続けており「定義されること」を拒む姿勢を有している。そのため、この流動性から包括的に「クィア写真」とはなんたるかを示すことは困難である。第1章では「クィア写真」としてどのようなものがありうるか、筆者の考えうる限り、知りうる限りでその範囲を示す。「クィア写真」を語るときどのような論点が挙げられるか、近年において「クィア写真」と呼ばれている実践はどのようなものがあるのか、「クィア写真」として多くの表現がまとめられるときにどのようなことが起こったのか例を挙げながら見ていく。
 第2章では、2020年に出版された岡部桃の写真集『イルマタル』を取り上げる。岡部桃の写真はタブー視されうるほどの強烈な性的描写や規範的な性(セクシュアリティ/ジェンダー)のあり方とは異なる被写体が多く含まれているためか、日本においては性的描写や性的マイノリティの表象に寛容な(?)欧米ほどの評価を得ていない。しかし、岡部の表現は現代の日本社会においても重要なものであると少なくとも筆者は考えている。岡部の作品分析を行い、その作品から読み取ったことを言葉にしていく。
 第3章では、第1章と第2章で論じたことを経て、岡部の作品と「クィア写真」が持つ共有の問題系を掘り下げていく。「クィア写真」という視点を立てたことによって岡部の作品や制作姿勢がどのように考えることができたのか考察を深めていく。


第1章 クィアと写真
第1節 クィアという視点

 「クィア(queer)」は定義を拒絶する姿勢を有しており、そのためその全体像を包括的に捉えることは不可能である。本節ではクィアが英語圏において現代的な意味で使われ始めた経緯と日本の近年における使われ方を追いかけることで、本稿で扱う「クィアという視点」をなるべく明確にするように試みる。
 英語圏においてクィアは形容詞として「変な(odd)」、「奇妙な(strange)」、「不可思議な(weird)」という意味をその言葉の始まりから持ち続けている(*2) 。その後に現れた名詞としての使われ方では、規範的・覇権的であるとされる性(ジェンダー/セクシュアリティ)のあり方から外れている人々に対する軽蔑的で攻撃的な差別語として主に1970年代ごろまで使われた。具体的には、現代のいわゆるLGBTQ+に含まれる、レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、パンセクシャル、その他にも異性愛的ではない人、そして、性自認がノンバイナリーであることやトランスジェンダーなど、社会において「適切」とされる男性性・女性性を体現していない人、シスジェンダー (*3)ではない人などがその対象に含まれている。
 1980年代後半のエイズ・アクティヴィズムから派生したクィア・アクティヴィズム(*4) の中で、他人からの侮蔑語としてではなく、自らを指し示す語としてクィアを扱う当事者が現れ始めた。クィア・アクティヴィズムは、黙っていれば殺される(Silence=Death) (*5) という時代背景において、それまで使用されていた制限的なゲイやレズビアンというカテゴリーを脱構築し性的マイノリティーが団結して共闘することを目指した。ACT UPの活動家たちによって設立されたQueer Nationによるスローガン「We're here. We're queer. Get used to it.」は自分自身の逸脱的なジェンダー/セクシュアリティを強烈に可視化させるアウティングの戦略として有名な言葉である。このようにクィアという名のもとで性的マイノリティの連帯を目指したことは、アカデミズムの分野においてクィア理論が生まれるきっかけとなった。
 日本においては1990年代半ばから、アクティヴィズムとアカデミズムの文脈でこうしたクィアという概念が用いられるようになる。近年の日本におけるクィア・スタディーズについて、飯野由里子・堀江友里・菊池夏野(2019)は「『異性愛』的でないとされる人々の生の経験、彼女彼らによって行われてきたさまざまな言説実践に関する研究と、そうした研究の蓄積を通して培われてきた独自の理論的なスタンスから行われる社会・文化批評の両方を含む、幅広い学問領域」と捉えている(*6) 。クィア・スタディーズにこのような二つの視座が見られるのは、その中で使われているクィアに少なくとも二つの意味が混在しているからだ。本稿におけるクィアの意味を明確にするためにも、板野・堀江・菊池(2019)に拠って二つの意味を説明する。
 第1に、クィアは性(ジェンダー/セクシュアリティ)にまつわるアイデンティティ・カテゴリー、あるいはそれらの緩やかな総意を意味する言葉として使用されている。とりわけ、メインストリームに同化的でない性的マイノリティのあり方、運動やコミュニティが研究の対象として挙げられる。第2に、クィアは特定の性のあり方のみを「ノーマル」とみなし、それ以外のあり方を「逸脱」と位置づけ、他者化する考え方を批判的に検討する視点である。例えば異性愛規範(ヘテロノーマティヴィティ)のように、人の生き方・あり方を方向付ける強制的な仕組み・制度、またはその要素などがクィアという視点から指摘されてきた。
 このようにクィアという言葉は社会的に差別されやすい多様な性的マイノリティのアンブレラ・タームとして、また、ジェンダー/セクシャリティに関する伝統的なカテゴリーや規範を批判的に検討したり解釈したりする姿勢として利用されている。本稿では前者を「名詞的用法」、後者を「動詞的用法」(*7) と呼ぶことにする。動詞的用法からは、性的マイノリティ当事者による言語実践も批判の対象になりうる。また、現在クィア・スタディーズでは、ジェンダーやセクシュアリティをめぐる規範そのものの検討のみならず、それらと交差するさまざまな文化的価値や社会規範が批判の対象となっている。こうした広義の意味におけるクィア・スタディーズを引き継いで、本稿ではクィアと写真を軸に論を進めていく。


第2節 「クィア写真」試論

 日本において、クィアという概念はアクティヴィズムの場やクィア・スタディーズのようにアカデミズムの場において使われ続けている。一方で、「クィアアート/写真」として表現の場で語られることは少なく、あったとしても欧米で語られている「クィアアート/写真」を紹介する文脈においてである(*8) 。前節において参照した日本におけるクィア・スタディーズと英語圏における「クィアアート/写真」を踏まえ、「クィア写真」について考えてみたい。
 クィアという言葉の持つ名詞的用法と動詞的用法という二つの指向性から考えると、「クィア写真」は性的マイノリティと様々な形で関わりのある写真や、写真を通して社会の中で構築された強制的な規範を批判的に検討する視点と仮に考えることができる。本稿において「仮」や「試」を多用しているのは、繰り返しになるがクィアという言葉は他者からの定義づけを拒否する姿勢を有しており、かつ絶えずその意味が変化し続ける可能性があるためである。将来的にはこれらの意味が全く違うものになるかもしれないが、本稿においては筆者が現在考えうる限りを示したい。
 一つ目の性的マイノリティと関わりのある写真とは、撮影者や被写体が性的マイノリティに含まれていることや、性的マイノリティに関する問題を扱っていることなどがあげられる。アーティストのアイデンティティにより作品が「クィアアート/写真」と呼ばれることは、「クィアアート/写真」とカテゴライズされる最も多い方法であるようだ。しかし、性的マイノリティが関わってさえいれば、その写真は「クィア写真」と言えるのだろうか。このことを考える際に重要となるのが、二つ目の、写真を通して社会の中で構築された強制的な規範を批判的に検討する視点を有することであるように思われる。
 Utu-Tuuli Jussilaは「IN/VISIVILITY Queer(ing) Photography」(2020)(*9) においてこの問題を扱っている。現在「クィア写真」と呼ばれるものの中に、性的マイノリティの人々の生活を「ノーマルに」表現することに焦点を当てた写真作品が多く存在している。このことについてJussilaは、「これらの写真は、『私たちは他の人と同じである』ということを意味しているようである。そこには普通であることや受け入れられることへの願望がある」(*10) とし、そのような試みの写真が「クィアアート」の文脈で語られていることに疑問を投じている。そしてJussilaは「すべてのクィアな人々による生活が、クィアな/奇妙な/異常な/非規範的な/ラディカルなものではないし、クィアな人々の生活についてのアートやクィアアーティストによるアートも同様にそのようではない」と続けている。
 このように「クィア写真」においては撮影者、または被写体が性的マイノリティ当事者であれ、どのような意図で写真を撮っているのか、または撮られているか、そしてどのように写真が提示されているかという作品のコンテクストが問われてくるのだろう。提示された写真が支配的な規範に迎合するかのような試みであるのならば、それは動詞的用法での「クィア」写真としては相応しくない。本章の第5節でも触れるが、2020年代の日本においては性的マイノリティが「ある程度」可視化されているという現状を考慮しなくてはならないように思われる。クィア・スタディーズと同様に、当事者による写真を介した試みも、このような点から批判の対象となりうる。
 社会の仕組みや制度といった規範は流動的であるということは「クィア写真」を考える上で常に考慮しなければいけないことであり、むしろそれらが流動的であるからこそクィアも流動的である。ある時点では「クィア写真」と呼ぶことができる試みも、時代や地域といった社会的背景が異なれば、そのように呼ぶことが難しくなる。例えば、メール・ヌードを撮るという試みはフィメール・ヌードを撮ることや異性愛がメインストリームである時代・地域においては「クィア写真」的アクションであると言えるかもしれない。しかし、男性のヌードがある程度存在する場合には、それら自身が新たな規範を生む可能性があることも考慮すべきことである。このように「クィア写真」において、常に写真の周りにある文化的・社会的背景を意識する必要がある。
 また、アーティストでもあるJussila(2020)は提示された作品だけでなく、作品の制作過程をも重視して「クィア写真」を考察・実践している。例えば「Non-binary Self-portraits」シリーズにおいて、ノンバイナリーを自認する人々のポートレートを撮影する際、Jussilaはカメラや照明の調整という技術的な面のみ行い、モデル(兼撮影者)自身にシャッターを押させたり発表する写真を選ばせたりといった通常アーティストが行うとされる行為をモデル(兼撮影者)たちに委ねた。これは撮影者と被写体の間に存在する不均等なパワーバランス、見る主体・見られる客体といった関係をできる限り排そうとする試みである。このようなJussilaの関心は「クィア写真(queer(ing) photography)」そのもののみならず、「写真をクィア的に制作すること(making photography qeerly)」というアーティストの姿勢にまで及んでいる。
 先ほど「クィア写真」の範囲として、性的マイノリティと様々な形で関わりのある写真や、写真を通して社会の中で構築された強制的な規範を批判的に検討する視点をあげた。加えて、Jussila(2020)の実践が示しているように、「クィア写真」においてはイメージが作られる過程でアーティストが有する特権に如何に自覚的であるか、そしてそれを如何に脱しようとしているかというアーティスト側の姿勢は重要であるだろう。また、このことはアーティストのみならず、筆者を含む「クィア写真」を語る者に対してもその姿勢は必ず問われてくる。


第3節 近年の「クィアアート/写真」で語られる実践

 現代において「クィア写真」を語る時、どのような論点が挙げられるのかということを前節において提示することを試みた。本節ではそれらを踏まえた上で、実際に「クィアアート/写真」の文脈で語られる2000年代以降の作品や実践を取り上げ、どのようなものが「クィアアート/写真」と捉えられているかを見ていきたい。
 自らを「ヴィジュアル・アクティヴィスト」と称するZanele Muholiは、2000年代初頭から南アフリカ共和国で日常的に迫害され続けている黒人の性的マイノリティ(レズビアン、ゲイ、トランスジェンダー、インターセックスのコミュニティ)の「参加者」を写真に撮り続けている。Muholiは「被写体」ではなく「参加者」という言葉を使っており、このことは前節で挙げたJussilaの「Non-binary Self-portraits」シリーズのように従来の写真撮影におけるパワーバランスへの抵抗であるだろう。また、「写真家」でも「アーティスト」でもなく「ヴィジュアル・アクティヴィスト」と自称していることは、写真やアート制度に囚われずより社会に根ざした活動を行っているという自負が感じられる。
 2006年からスタートし現在も進行中の「Faces and Phases」シリーズは、Muholi のヴィジュアル・アクティヴィストとしての活動を広く知らしめることとなった。レズビアンやトランスジェンダーのポートレートにより構成されている「Faces and Phases」において、写された参加者はカメラを直視しており写真を見る者へかれらの存在を強く印象付ける。南アフリカ共和国は2006年にアフリカで初めて同性婚を合法化した国であるにもかかわらず依然としてホモフォビアが蔓延しており (*11)、レズビアンを「矯正」するためのレイプ犯罪や殺人が繰り返されている。このシリーズには、そうした凶悪な行為を生き延びた人々のポートレートが掲載されている。
 社会的に存在を不可視化され迫害され続けている特定のコミュニティに属する人々を、同じコミュニティに属するMuholiは、まるで自分自身を撮影するかのようにプライドを持った個人として撮影している。そして、それらを集団で提示することで、個人としてだけではなくコミュニティとしても可視化し続けている。Muholiの活動に見られる性的マイノリティの可視化は、正史にはない「私たちの歴史」を作るプロセスであり、不可視化されている人々の存在を証明する手段であるだろう。「Faces and Phases」のように進行中のマイノリティ・ポリティクスと連動する「クィア写真」では、他者として被写体を捉えるのではなく撮影者が被写体と同じ、または、近しいコミュニティに属していること(またはそのような姿勢があること?)、そして被写体を1人の個人としてそれ以上でもそれ以下でもないように撮影し提示することが鍵であるように思われる。
 「様式美の過剰なまでの引用にアイロニーやユーモアを媒介させて、深遠ぶったものをこき下ろすとともに、俗悪さの中に知性や新奇な美を浮き上がらせる」(*12) 「キャンプ」な感性を持つ「クィア写真」もある。Pauline BoudryとRenate Lorenzによる映像・インスタレーション作品「Toxic」(2012)では、仮面やマスクを着用した人物の「マグショット」が、映像の中にある植物に囲まれたスクリーンに次々と写される。映像では、異なる時代に属するとされる2人の人物が、そのスクリーン前で登場しパフォーマンスが行われる。パンキッシュな人物は毒性について語り、フェミニズムアートの初期作品を引用したパフォーマンスを行い、その後ドラァグ・クィーンが80年代に行われたジャン・ジュネのインタビューをリップシンク(口パク)で再演する。多くの要素がある作品だが、作中に現れる写真という要素にフォーカスして考察する。
 マグショットとは、被写体を側面と正面から写す撮影方法で、主に欧米では犯罪者、セックス・ワーカー、同性愛者、黒人、「植民地」出身の人々を「科学的」に記録するために、警察や民俗学者、国家や人類学によって用いられていた。一方で「正常」な特権階級の撮影者とその写真を見る人々、他方で写された「異常」な被写体というように、「社会的ヒエラルキーの確立と特権を正当化するために使用された」(*13) 撮影方法である。映像作品「Toxic」においては、髪を頭上で結んだ人物が緑で透過性のある防毒マスクのようなものをつけていたり、顔よりも数倍大きい白の四角で作られた仮面のようなものをつけコルセットを窮屈そうに装着していたりと滑稽な装いでマグショットに写っている。
 インスタレーション作品としての「Toxic」では上述した映像作品とともに、「pédérastes (少年愛者、同性愛者の意味(*14) )」と呼ばれるアーカイブ写真も展示された。「pédérastes」は1870年代に制度側が同性愛者を見分けるため、15人の同性愛者と異性装者を撮影したパリ市警のアーカイブである。これら「Toxic」の写真を用いた試みは、実際に撮影された写真と実際に行われていた撮影方法に潜む同性愛嫌悪、人種差別、分類学、優生学といった遺産を「毒」としてアイロニカルかつユーモラスに反復するキャンプな「クィア写真」である。
 ここまで2000年代以降に「クィアアート/写真」と呼ばれるものの中で、重要であると思われる2組の「クィア写真」を介した実践を取り上げた。Muholiの「Faces and Phases」は同時代において差別され続けている性的マイノリティを同じ仲間として敬意を持ち可視化を行っている。BoudryとLorenzの「Toxic」で用いられる写真は、過去に起きた性的マイノリティに関する出来事をキャンプな感性を持って掘り起こす「クィア考古学」(*15) 的実践と言えるだろう。現れる表現はもちろん異なるが、どちらも既存の、または過去から現代まで続く社会構造に抗する意思が強く感じられる。加えて、どちらの写真も人物を主な被写体としたポートレートである。
 一方で、人を写さない「クィア写真」もある。2014年からJoseph Maidaによってインスタグラム上に発表されている「Things “R” Queer」シリーズでは、食品サンプルなどのカラフルなおもちゃがこれまたビビットでカラフルな背景に並べられて撮影されている。Maidaのwebサイトによると「これらのイメージはその美的特質や操作性の欠如において歴史的に『ストレート』なものであるが、現代の物質文化に対する批判を兼ねたファンタジーとしてキャンプ的に視覚化している点で、間違いなくクィアなものである」そうだ(*16) 。
 Maidaの「Things “R” Queer」シリーズはその名前から、Duane Michalsが1973年に発表された「Things Are Queer」のオマージュであることが分かる。「Things Are Queer」は9枚のイメージから構成されており、1枚目はあるバスルームを写したもの、次に画面がズームアウトされバスルームのサイズ感らからして大きすぎる足、さらにズームアウトしてその足の持ち主である人間が現れ、次にそれらが映された1枚の写真が実は本の図版で誰かの親指がその図版を押さえている様子、そして本とその本を読む人の頭部、ズームアウトし逆光で本を読んでいる人、その場面を写した写真が額装され壁に掛けられており、そして、その写真は初めのバスルームに飾られていた、というフォト・ストーリーが展開されている。
「Things Are Queer」で写される被写体そのものはクィアではないが、その構造から鑑賞者に対しクィアな体験を与えていると言われている (*17)。それに対し、「Things “R” Queer」シリーズはむしろ写されているカラフルな被写体やその異様な組み合わせがMaidaの言うキャンプであり「クィア写真」の要素であるのだろう。2018年からMaidaのインスタグラムアカウントで「#thingsarequeeract2」とともに投稿される「Things “R” Queer」の後続にあたるシリーズには、宝塚歌劇団の男役のポートレートが同じくカラフルな背景とともに写されている。Maidaによるこれらの試みは写真史のオマージュとクィア文化の中で生まれたキャンプという感性を抽出し制作されたものだろう。
Maidaの「Things “R” Queer」シリーズをMuholiの「Faces and Phases」やBoudryとLorenzの「Toxic」に続けてここで提示することは些か文脈がズレているかもしれない。しかし、近年「クィア写真」と考えられうるものの中には「Things “R” Queer」のようなものをも含みうることを示す上ではある程度有用であると思われる。このように、「クィア写真」の中で語られる実践には現代の性的マイノリティの問題を真っ向から扱ったものから、クィア文化の中から生まれた要素を引用したものまでありとあらゆるものが含まれている。


第4節 『New Queer Photography』から見る「クィア写真」の構造

 本節では前節で紹介したように様々な表現を含みうる「クィア写真」が編集され、キュレーションされ一つのものとして提示されることについて、2020年にドイツで出版された写真集『New Queer Photography』(*18) を例に挙げて考えていきたい。
 『New Queer Photography』は、ベルリンを拠点にアートディレクターや編集者として活動しているBenjamin Wolbergsによりクラウドファンディング(*19) を介して出版されたアンソロジー形式の写真集である。Wolbergsの編集により52組のアーティストによるイメージとWolbergsとその他6名のライターによるテキストを収録している。筆者の調べた限りこの写真集は「クィア写真(queer photography)」を冠した写真集のなかで最も多くのアーティストの作品が含まれており、2020年代における「クィア写真」の現在地を批評的に考える上で役に立つと思われる。この写真集の趣旨についてWolbergsは以下のように書いている。

様々な方法における周縁的な視点は、中心から物事を見るよりも多くの点で刺激的ではないだろうか。周縁で活動することは、社会における主流の規範や期待に準拠しているものとは全く異なる、より自由で実験的な創造の余地があるのではないだろうか。社会の周縁部は、偉大で刺激的な物語や注目すべき芸術作品を生み出す豊饒な地であるのではないだろうか。
だからこそ、様々な周縁に注目しよう。悔しさと怒りの源にしよう。抑圧を生んでいるのであれば戦い、不正を生んでいるのであれば連帯しよう。創造性、個性、自己表現を育むものであれば、解放、自由、喜びを広めるものであれば、それらを楽しみ、祝福しよう。(*20)


 52組のアーティストは1組につき4〜10ページを割り振られ、それぞれ4〜26のイメージをこの中で掲載している(*21)。それぞれのアーティストページにはWolbergsによる130語程のテキスト、またはWolbergs以外のライターによる長文のテキストが作品と共に配されている。Wolbergsが「様々な周縁(the margins)」というように、この写真集には欧米だけでなく、アフリカ、アジア、南アメリカと様々な地域で撮られたイメージが収録されている。また、「LGBT」という言葉のようにそれぞれの属性に明確に分けることの難しい作品が多いこと、そして「new」とタイトルにつけられていることから1980年以降に生まれたアーティストが多いこと(*22)もこの写真集の特徴である。
 この写真集での「クィア」という意味について、Wolbergsは「包括的なアンブレラ・タームとして使っている」とだけ述べている(*23)。このように「クィア」や「クィア写真」がなんたるかを明示せずに、「多種多様」なアーティストによる実践を300ページ超えのボリュームで展開する試みは、「クィア写真」と呼ばれるものの中にある多様性や、地域毎に存在する「クィア」文化の差異や共通点を視覚的に示すことに成功している。「クィア写真」を一冊の本の中でこれだけ提示したWolbergsの編集者としての姿勢は「正しい」ように思われる。しかし一方で気になるのは、その中にも現れる不平等なバランスである。
 八巻由利子は『New Queer Photography』について、「掲載されている世界各国の50人 [原文ママ] の写真家のテーマはトランスジェンダーが多い」と所感を綴っている(*24)。そのような見方をした理由は八巻によってまとめられた「写真集とともにたどるLGBTQ写真史」(2021)を見ると大方推測することができる。八巻が紹介したうち1840年代〜1990年代の「LGBTQ写真集」と呼ばれるものは、レズビアンやバイセクシュアルの写真家たちについて触れられてはいるものの、大半がゲイの写真家や男性ヌードで占められている。このことからわかるように、「LGBTQ写真史」を写真集の文脈から振り返ると、そこには「LGBTQ」の中にも格差が存在していることが分かる。これは家父長制やホモソーシャルが内包する女性嫌悪(ミソジニー)による男女格差(ジェンダーギャップ)やシスノーマティヴィティ(*25)などが影響している。
 かなり乱暴な分類方法ではあるが本節の分析に有効であると判断したため、『New Queer Photography』に収録された52組のアーティストによるイメージを「L(レズビアンがテーマであることが明示的)」、「G(ゲイがテーマであることが明示的)」、「T(トランスジェンダーがテーマであることが明示的)」、「mixed or/and nonconforming(様々なジェンダー/セクシュアリティが混ざっている、または/かつ、テーマが明示的でない)」に分ける と、「L : G : T : mixed or/and nonconforming = 4 : 13 : 8 : 27」となる。加えて、Wolbergsと他6名のライターにおける人称代名詞の割合を見ると、「he : she : they = 6 : 1 : 0」であった。また、「世界各国」のアーティストが紹介されているとはいえWolbergs自身がベルリンで活動を行なっているからだろうが、やはり欧米がベースであるアーティストの割合が高いこともここでは言及せざるを得ない。編集後記ではWolbergs自身もこのようなバランスや「クィア写真」としてこれらをまとめて写真集として出版することに対し試行錯誤していたことがうかがえる。

結局のところ、この種のアンソロジーの制作には常にリスクが伴い、本書における写真家やイメージの選択にすべての人が納得する事はないだろう。すべての才能ある写真家、すべての芸術的立場、すべてのテーマ、すべての美的スタイルを本書のように一冊の本で紹介することは不可能である。それぞれの選択は個人の認識、基準、好みに必ず基づいている。私はいつもできるだけ多くの異なる写真家、重要なテーマ、クィアな想像の世界を紹介するために、過度に教義的なアプローチよりも自分の直感を信じて、最善を尽くしてきた。(*27)


 Wolbergsによる個人的な選択が先に示した不平等なバランスに直結している。確かに、すべてのことを平等に選択することはWolbergsが書いているよう不可能であるのだろう。一冊の本、一つの展覧会、一つの特集ですべてを平等に提示する事はできない。しかし、クィア・スタディーズが多くの国や地域で行われており実際に多くの書き手が活躍している現状で、ライターのあからさまな非対称性などは出版までに自己反省し是正しようとは思わなかったのか。
 このような女性でなく男性、トランスジェンダーではなくシスジェンダー、有色人種でなく白人、(ここには多くの言葉が付け加えうる)、が結果的に、無自覚に、主導権をとってしまうことは性的マイノリティに関する文化的実践であっても非常に多い (*28)。クラウドファンディングが成功し出版された『New Queer Photography』で、多様なアーティストによる作品がまとめられたように、「クィアアート/写真」という視点はある程度可視化・認知されてきているように思う。そして、今後はその次が求められてくるだろう。「クィア」という言葉を使うとき、この言葉が傘のように今まさにある社会の不平等なバランスまでも覆い隠してしまうものにならないか、繰り返し問い続ける必要がある。このことは現代的な意味で「クィア」が使われ始めたころから危惧されていることである。たえず自身の目を自身が持ちうる特権に、そして「周縁」に向けさせる姿勢、動詞的用法としてのクィアこそ問われていることではないだろうか。


第5節 アイデンティティでの括り

 本章において「クィア写真」という視点を立てた理由の一つは、作品が作者の一部のアイデンティティによってまとめられること、言い換えれば、作品に関わる際に作者の一部のアイデンティティに固執してしまうことの怖さを筆者自身が覚えたためであった。クィアという言葉はそうしたアイデンティティでカテゴライズする方法に対し、いくらかの撹乱の可能性を持っていると今でも筆者は信じている。しかし、クィアを性的マイノリティのアンブレラ・タームという名詞的用法のみで使う際にはやはり注意しなければならない。
 現在、性的マイノリティに関する作品を巡る言説で「作品を目にするようになった若手写真家の中に、LGBTQの作家が増えてきている」(*29) など、まるで最近になって突如そうしたアイデンティティを持つ作家が多数出現した、または新しいトレンドとでも言いたげな内容が散見される。このような状況は1990年代にアート/写真界において「様々な分野で元気な女性の活躍が目立っています」「女性アーティストのアクティヴな動向には目を見張るものがあります」 (*30)という言われ方をし、多くの場所で「女性」というアイデンティティ・カテゴリーで作家や作品が括られ提示された状況と似ている。
 先に挙げた3つの引用文は実際には「LGBTQ」や「女性」の作家、そしてかれらの作品を「他者化」ではなくエンパワメントする文脈・方法の中で語られたものである。そうした文脈であってもこのような言い方には幾分かの違和感を抱く。しかし、そのようなアイデンティティ・カテゴリーによる括り方をすることで、かれらが(私たちが)得ることのできるものを探すとするならば、それは「可視化と連帯」という点だろうか。様々な暴力、実際に振るわれる暴力、構造からの排除や不可視化される暴力、無邪気さや無知による悪意なき暴力に抗うという面で、可視化し連帯することはこの社会で生きていく上で必要不可欠な手段である。
一方で、そうしたアイデンティティの属性による括りに対するカウンターとして「私(I)」という属性に収まりきることのない「個人」を、性的マイノリティーや女性の作家自身が、またはかれらを紹介する文脈で強調されることもある。これらは先ほどあげたアイデンティティ・カテゴリーによって括る方法と比較し、別の視座を持った切実な応答であるように感じられる。当たり前のことであるが、1人の人間を例えば「女性」というカテゴリーのみで理解しようとすることは不可能であるように、人は容易にカテゴリーで分類・理解できるようなものではない。とはいえ、だからこそ「私」というもの以上に信じることのできないものはないだろう。「私」とは社会の中で生きる限り、様々な構造の中で様々な要素を持ちうるものであり、決して「一つの確立した自己」といったような純粋無垢なものではないはずだ。
 クィアが語られてきた道のりでは今挙げた、アイデンティティ・カテゴリーで可視化・連帯すること、そしてそのカテゴリーそのものを疑うこと、このどちらも通ってきた。キース・ヴィンセントは欧米の性的マイノリティの歴史的実践における「順序」を以下のように説明している。

西洋(とりわけアメリカ)の場合、レズビアン&ゲイの「近代的」な運動が最初にあって、レズビアンとゲイの権利を主張する闘いの一環としてレズビアン/ゲイ・スタディーズが成立した。[中略] 初期のレズビアン/ゲイ・スタディーズはレズビアンとゲイの特異性、その「差異」あるいは「アイデンティティ」を強調し、認めさせようとしてきた。そのような基盤が出来て初めて、そのアイデンティティをまた解体し、それがどのように、レズビアン&ゲイという集団の内部に存在している差異への認識を犠牲にして出来上がっているかを、クィア・セオリーという形で問題にすることができたのである。(*31)


 これは浅田彰がかつてゲイ・ムーブメントに勧めた「マイノリティのアイデンティティは断固として主張され、また擁護されなければならない」、そしてそれを過ぎたところで初めて「人が性的アイデンティティについて語らなくてもよくなる」(*32) という性的マイノリティの実践における「2段階」であるのだろう。しかし、ヴィンセントも後に続けているように、歴史的にもこれからもマイノリティのアイデンティティが脱構築に「耐える」ほど強固になることはない。例え一部のマイノリティが十分に可視化され、様々な場において一般的に権力と呼ばれるものを手に入れることになったらそれで終わりなのだろうか。だからこそ、絶えず「周縁」を見る姿勢が問われているのではないか。
 前節で提示した『New Queer Photography』の例では、「クィア写真」とまとめられた際に現れた不平等なバランスを見ることによって、現存する規範や特権を自覚しそれらを排することが如何に不十分であったかが分かった。現在語られる「クィアアート/写真」の多くがアーティストのアイデンティティによってその名が付けられているように、「〇〇(アイデンティティ・カテゴリーの様々な言葉)写真」と作品や作家がまとめられることの意義としては、可視化と連帯、そして、その構造の中に現れる不十分であるところや問題点を指摘できる、という点においてであるだろう。 


*1  TATE BRITAIN「QUEER BRITISH ART 1861–1967」 や美術手帖「美術史におけるクィアの物語を探る。『Queer』展がメルボルン・ビクトリア国立美術館で開催へ」を参照とした。
*2   Merriam-Webster「queer
*3  出生時に割り当てられた性と性自認が一致している人。
*4  トランスナショナルな視野を有したクィア・アクティヴィズムについては以下を参照。その中では本節で紹介したいわゆる欧米のクィア・アクティヴィズムの「本流」も批評的に考察されている。
Brenna Munro, Gema Pérez-Sánchez, ‘Introduction: Thinking Queer Activism Transnationally’, THINKING QUEER ACTIVISM TRANSNATIONALLY, S&F Online, 2017.
*5  エイズ流行中にACT UPにより掲げられた主な標語の一つ。
*6  飯野由里子・堀江有里・菊池夏野「クィア・スタディーズの範囲」『クィア・スタディーズをひらく1 アイデンティティ、コミュニティ、スペース』晃洋書房、2019年、pp. 4-6
*7  ‘queer verb 1a: to consider or interpret (something) from a perspective that rejects traditional categories of gender and sexuality: to apply ideas from queer theory to (something) b: : to make or modify (something) in a way that reflects one's rejection of gender and sexuality norms’ Merriam-Webster, op. cit.(2)
*8  例えば以下が挙げられる。
松井みどり「クィア理論とアート」『美術手帖』1061号、美術出版社、2017年、11月。i-D「気鋭のクィア・アーティスト5人
*9  Utu-Tuuli Jussila, “IN/VISIBILITY - Queer(ing) Photography", Master of Arts Thesis Degree Programme in Photography Department of Media Aalto University School of Arts, Design and Architecture, Helsinki, 2020.
*10 Jussila, op. cit., p. 18.
*11 2010年、当時南アフリカ共和国の芸術文化大臣であったLulama Xingwanaは、Muholiの展覧会にレズビアンカップルの親密な写真が含まれていたことから「不道徳で攻撃的、国家建設に反している」と非難した。この発言は当時の南アフリカ共和国のホモフォビアを反映している。
*12 松井前掲文、p. 90(8)
*13 Pauline Boudry / Renate Lorenz’s web site, ‘Letter to Virginie Bobin by Pauline Boudry / Renate Lorenz
*14  Collins, ‘pédéraste
*15 大坂紘一郎「Pauline Boudry / Renate Lorenz」『美術手帖』1061号、美術出版社、2017年、11月、p. 26。
*16 Joseph Maida, ‘Things “R” Queer
*17 thinkPhilosophy, ‘Queer Space: Duane Michals’ Photographic Series “Things Are Queer”’, Medium, 2019.
*18 Benjamin Wolbergs, New Queer Photography, GINGKO PRESS, Berlin, 2020.
*19 KICKSTARTER, ’New Queer Photography
*20 Wolbergs, op. cit., p.9.(18)
*21 参加アーティストの1人であるRafael Medinaはこの写真集の1ページ目に一つのイメージのみが掲載されている。
*22 すべてのアーティストが生まれた年を公開しているわけではないので筆者が調べた限りの情報である。参加アーティストの1人であるAshkan Sahihiは1963年生まれである。
*23 Wolbergs, op. cit., p.302.(18)
*24 八巻由利子「写真集とともにたどるLGBTQ写真史」『IMA』2021Autumn/Winter Vol.36、アマナホールディングス、2021年10月、p. 124。
*25 すべての人がシスジェンダーであるという考え、規範。例えば「男性は妊娠できない」という言説は、トランス男性の存在を不可視化かしたシスノーマティヴィティに基づくものである。「生理は女性のもの」という言説も同様である。
*26 『New Queer Photography』に収録された作品紹介文やアーティスト自身のwebサイトを元に分類した。また、この分類はアーティストが手がける作品やシリーズ全般に対してではなく、あくまでこの写真集に編纂された限られたイメージに対して行った。本稿の資料(表1)にどのイメージをどのように分類したかを記載している。
*27 Wolbergs, op. cit., p.302.(18)
*28 2017年に台北で開催された展覧会「光・合作用-アジアのLGBTQと現代美術」や、世界や日本各地で開催されている性的マイノリティをテーマにした映画祭などを見ると分かりやすい。このようなバランスに自覚的になり活動を行なっている文化団体としては、関西クィア映画祭などが挙げられる。
*29 高橋朗「I(私)の現在-ジェンダーと日本の若手写真たち」『IMA』2021Autumn/Winter Vol.36、アマナホールディングス、2021年10月、p. 78。
*30 東京写真美術館「ごあいさつ」『私という未知へ向かってー現代女性セルフ・ポートレート』東京都文化振興協会、1991年、p. 6。
*31 キース・ヴィンセント「誰が、誰のために?」『現代思想』臨時増刊vol. 25-6、青土社、1997年5月、p. 11。
*32 浅田彰「ゲイ・ムーブメントのために」『インパクション』71号、1991年、p. 73。



(現在、修士論文で執筆した全てをまとめて一冊の本にしようと準備を進めています。気に入っていただけた方の中で、お金に余裕がある方はサポートしていただけると大変助かります。印刷・製本費に充てさせていただきます。)

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