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私のこと 004

高校1年生の私は、ほとんど学校へいくことができなくなっていた。
明確な理由はないが、心臓に石が詰まっているような、心がズキズキと重苦しく、息がしづらい日々を過ごしていた。

学校に行ける日、行けない日、遅刻する日、早退する日、いろんな日があった。私もその状況を受け止めることができず、苦しい日々だったが、家族はもっともっと苦しい日々を過ごしたことだろう。厳しい言葉もかけてくれ、家族なりの精一杯のフォローもしてくれたが、どれも私には響かなかった。

結果として、私は高校2年生から学校へ行きはじめた。欠席もチラホラあったが、それでも1年生に比べたら、大きく前進していた。そんな風に変わったのは結局のところ自分の意思だ。

高校1年生の3学期、このままでは本当にまずいと思った。でも、身体はいうことを聞いてくれない。それでも私は、2年生からは学校へ行こう。だから今はゆっくり休もう。と決めて、学校へ行ったり、行かなかったりしながら1年生の学期末を迎えた。

2年生になった私は、自分の決めたことだから。と無理をして学校への登校を再開した。

まずは目標を持とう。と菓子屋として社会に出て役に立つだろうと思った勉強をはじめた。
学校の勉強そっちのけで、食生活アドバイザー検定、秘書検定、サービス接遇検定と、独学で学び、次々と検定を受けていった。

学校にいる時間は苦痛でしかなかったが、その勉強は楽しかった。その時はじめて、勉強は楽しいものだと知った。そこから、周りの目は気にならなくなった。何か言われても、夢中になることがあれば平気だった。

それと同時に、母親の出張の度に、京都へ同行するようになった。京都駅からは別行動。自分で京都の町を周り、和菓子屋さんへ行って回った。

私は、どんな店で勉強するのがいいのだろう・・・?

それだけを考えて、和菓子屋さん、和カフェ、和菓子の展示、いろいろな場所へ足を運んだ。

通常、修業というものは、親の繋がり、会社の繋がりで、誰かの紹介の元、親に連れられ先方へ挨拶へ向かう。私には、そんな後ろ盾はなかった。自分で修業先を探し、採用してもらう必要があった。不安と同時に、自由さも感じていた。

これだけ目標が明確となり、近くに小さな目標が出来たら学校も怖くない。まだ、胸の奥に詰まった何かは痛むけど、それでも学校に通って、朝から夕方まで授業を受けた。

正直、学校の授業には付いていけなかった。理系科目は全く分からなくなっていた。だから、こっそり授業中に資格試験の勉強をして、休みの日に試験を受ける、という日々を繰り返して、卒業の時期がやってきたのだ。


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