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コミュニケーションの真髄は、「弱さへの共感」にあり!

だいぶご無沙汰してしまいましたーー!

今日は自分が言語化できていなかった感覚を、美しく完璧に表現している本を見つけ、感動したので…

また、その内容があまりにすばらしく、ぜひ多くの人に読んでほしいと思ったので…

シェアしたいと思います✨


その本とは、『赤ちゃんにおむつはいらない』という本です。



私自身、おもらし生理をある程度コントロールできるようになって楽になった経験があったので、育児でも応用できたらいいなと思って手に取ったのですが…

意外や意外、本題とはまったく別のところで、感動する事態になりました。


それが、本の冒頭も冒頭、序章で触れられていた、「コミュニケーション」についてです。


パートナーシップに取り組む過程で、自分はコミュニケーションが下手なことに気づき…(^^;)

日々トレーニングするつもりで、今も取り組んでいるのですが…


「魂の道」や子宮推命のセッションを通じて、同じような壁にぶつかったり、悩んだりしている人が思いのほか多く、「むしろコミュニケーションが得意な人なんていなくて、みんな難しさを感じているんじゃないか?」と思うようになりました。

同時に、企業などの現代の組織や、家族が抱える課題も、結局は「人と人とのコミュニケーション」に集約されるのでは??と、感じるようになりました。


なぜ、こんなことになってしまっているのか?


それが、この本の序章に書かれていたのです。

まさかの、おむつなし育児の本に!


引用が少し長くなりますが、すごく大事だと思ったので、ご紹介します。

また私自身の体験や感じたことも、併せてシェアしていきますね~!



コミュニケーション、という言い方が、言語によって自らの主張を明確にすること、とか、ディベートの能力をあげること、とか、論理的にうまく表現して相手を納得させられること、といったことのように語られてきて久しい。

言葉による明確なコミュニケーションは、強いほう、つまり強者にあわせることになるし、自らにも強く、より強くあることを課す。

なんでも明確に説明できる人が優秀な人になるし、てきぱきと目の前のことをこなす人が望まれるし、会議での発言は多ければ多いほどいいし、賢そうなことをいえるほどよい。

そういう言葉ばかりを愛でるようになると、できない人には冷ややかなまなざしがむけられるようになる。一度で理解できない人には、はあっという軽蔑をこめたため息とともに、自分の時間を無駄にしないでほしい、という思いをこめて、強い調子の言葉で再び説明がされる。

私たちの社会はそのような方向に動いてきたし、今でも仕事というものはそういうものだ、と多くの人が思っている。

このようなやり方では、もちろん、ついていけない人のほうが多い。
言葉をうまく操れない人、からだがうまく動かない人、いわゆる"知的"な作業が苦手な人、病を抱えた人、老いた人、幼い人。みんなついていけない。

言葉と説得と押しの強さを愛でるコミュニケーションのありようを肯定するところでは、このような“弱きもの”の居場所はない。
"弱きもの"たちは、強くて、こういうコミュニケーションが得意な人たちの"善意"と社会安定化の意図によって構成されていく福祉のシステムに組み込まれていくしかない。

それでよかったのかどうかは、実際にこのようなやり方で「強くなった人」、「勝ち組になった人」たちの少なからぬ人数が、自らの弱さを認められないつらさをかかえて苦悩していることをみれば、明らかなのではないだろうか。
駆り立てられすぎて体をこわしたり、眠れなくなったり、心を病んだり、家庭を崩壊させてしまったり、そういうことをわたしたちはたくさん経験してしまったし、周囲に経験する人もあまりに多い。これは、つらいやり方なのである。

このような明確なコミュニケーションについていけない人にとってつらいだけではなく、しっかりついていけている人、そういうやり方で優秀な人となっていった人にとっても、つらいのである。

人間は誰も強いところと弱いところを抱えて生きている。強い方向にだけ合わせる形で関係性ができあがっていくと、それは誰にとっても生きにくい社会をつくりあげてしまう。

(中略)

わたしたちはみな、強いところだけを出して生きてはいけない。弱さを認めて、それを共有できる場が必要である。

そう考えると、「弱さ」に共感したり、みずからが「弱さ」を出してもよい、と考えること、「弱さ」を通じてつながっていくこと、ということがわたしたちが生きていくうえで何より大切なのではないか、ということに気づき始める。

この国では、戦後、家族、とか、家庭、が家父長制による抑圧の温床であり、個人の自由と成長を妨げるものである、と議論してきたが、もともと、家族はその成員の誰もがみずからの一番弱いところを出すことができ、その弱さを共有し、さらに弱い人に共感しながら生きていくための最小単位でもあったのではないか。

人の助けがなければ生きていけない人に周囲が共感し、そうすることによって、助けている側の弱さをも認めることができる、そういう場のことだったのではないか。そういう場であるからこそ、幼い人が育ち、病んだ人が安らぎ、老いた人が安心して死んでいけるのである。

コミュニケーションの力、とは強い人が強い言葉で自己主張をする力、ということではなく、言葉にならない思いを共感し、「弱さ」を共有できる、ということではないだろうか。

「赤ちゃんにおむつはいらない」27~29ページ



私が子どもの頃の家族のコミュニケーションは、まさにここに書かれている通りでした。。

「知性」や「教養」が大切で、それを子どもに付けることで必死。

だから、晩ごはんのときは、それが十分に身についているか?自分の頭で考えることができているか?をチェックするために、親から質問をされる。


意に沿った回答ができれば良し、できなければ「バカ」扱いされ罵られる。

(実際は罵っているつもりはなかったのかもしれないけれど、私はそう捉えていた)


罵倒されないように、間違えて恥ずかしい思いをしないように、いかに「正解」を回答するか?

それだけが大事になってしまって、「自分の素直な気持ちや考えを言う」なんてことはできなかった。

それは実家を出てからもそうで、他人と話すときは「いかにその場の正解を答えるか」が何より優先すべきことになってしまった……。


私も親を責めたいわけじゃなくて、ただ「こうだったな~」と思っているだけでして(^^;)

知性や教養が大事じゃないわけではないし、社会の風潮が、強迫観念のようなものが、私たちの親世代を圧迫していたとも受け取れるので、特定の誰かが悪いというわけじゃないと思っていて。



ただ、自分が体験したことから、より良いものを自分の子に渡すとしたら、それはやっぱり「コミュニケーションの仕方」じゃないかな、と思います。

私が体験したコミュニケーションも、きっと、「親としての正しさ」から来ているんじゃないか?と思って…。


「正しい行いをしようとする」

「正しい親であろうとする」

そのプレッシャーが、こういうコミュニケーションを生み出していたんじゃないか?って。


「正しさ」を振りかざすと、どうしてもひずみが生まれてしまう。

素直な気持ちはないがしろにされ、脇にはじかれてしまう。

それで、家族の誰もが苦しくて、窮屈になってしまうんじゃないかな?


この本に書かれているように、「私が正解で、あなたが間違い」という強者・弱者のコミュニケーションではなく…

自分が誰かに烙印を押されないように、相手に正しさを押し付けるのではなく…

「あなたが感じていることが正解なんだよ」

「思っていること、感じていることを安心して話していいんだよ」


という姿勢で、自分の子どもともコミュニケーションを取りたい。


きっとそれが、子どものときの私が、一番欲しかったものだから。


人としての正しさ、正しい親の子であること、子として正しい行いをすること。

その場に合った正解を答えること。

どれも、「安心して自分が思っていること、感じていることを話せる」ことに比べたら、大事じゃない。


この部分を読んで、私はそんなことを感じました。



序章は、こんな風に締められていました。


言葉も発せられない弱い人に合わせること。その人に共感していくこと。
それができるようになると、弱い人に合わせていた人自身が自らの弱さをも出すことをいとわなくなる。弱い人に合わせる、ということは、また、自らの弱さも認め、弱さによってつながっていくということだからだ。
言葉ばかりを使ったり、上から下へ、という態度で接することによっては弱い人に合わせることはできないからである。

「おむつなし育児」で学ばれるのはそういうことかもしれない、と考える。生まれたばかりの赤ちゃんは、言葉を話すことができず、身体的にも多くの助けを必要としている「弱い」存在である。
生命力にあふれ、赤ちゃんは強いのだ、というのとは違う次元の弱さ、すなわち他の助けがないと生きていけない、という意味での「弱い」存在である。

その家族で一番弱い人が、自分の思いを伝えられなくて、泣き続けることがないように、周囲が共感能力を高めていく。幼い人の排泄にむきあう、ということは、そのための一つの大きなきっかけなのである。

(中略)

わたしたちがここで書いていきたいのは、「家庭内の、弱い人を助け、共感する」ということを、母親のみでなく、家族のそれぞれが経験してほしいし、そうすることによって、すべての家庭の成員が、自ら自身の弱いところを出すことができるようになる、ということである。

そしてそのように家庭内で共感能力の涵養に努める機会を得た人は、かならず、家庭にとどまらず、地域や社会でその力を求められるようになる。

共感能力の高い人は、仕事の上でも、仕事のパートナーや相手の気持ちを察することができるから、一緒にいて気持ちがよくて、しかも結果としてよい仕事をすることになる。そういう人とは誰もが一緒に仕事をしたい。だから、次の仕事も来る。

わたしたちは社会的な名声や評価ばかり求めてきて、「家事」や「子育て」はそれを妨げるものだと思ってきたものだが、実はちがうと思う。

赤ちゃんをおむつなしで育てられるような人は、他のどのような場に行っても、うまくやっていくことができる。自らの言葉ばかりを主張することなく、他の人を生かすことができるような人になる。共感能力を上げることは、自らを客観的にみることができることにつながっている。他の人を生かすことができる人の仕事の質は、結果として高い。

(中略)

おむつなし育児は、こうすればこのようによいことがある、という科学的な因果関係を求めるものではない。以前は誰もがやっていた、人間の知恵、である。赤ちゃんをご機嫌よくすこやかに育て、関わる人間の共感能力をも上げる知恵であった。そこで育ってくる人がまた、本来の意味でのコミュニケーションの能力、すなわち共感能力の高い人になっていくことはおそらく疑いのないことだろう。

そういう人たちが今よりすこし増えてくる社会は、おそらく、今より住み心地がよいのではないか、と考えている。(三砂ちづる)

「赤ちゃんにおむつはいらない」29~31ページ


さすが大学教授…!説明がうまい!!

「おむつなし育児」を、子育てを直接する母親や父親だけのメリットとして提示せず、仕事や社会というところまで範囲を広げることで、「誰にでも関係がある話」として主張をする…

ライティングの勉強になります(笑)


でもホント、三砂さんが書かれていることは、私も肚の底から「そうだよねーーー」と感じます。

家事や子育て、家庭から始められることがある。

地味でないがしろにされがちな、でも私たちの基盤となるところから。

そこで共感能力を上げ、伝える力を鍛えれば、それはパートナーシップや家庭の範囲を超え、必ず仕事としても結びつくし、結果が出る。


こういう話って、スピリチュアルな人なら感覚でわかるけれど、実際の言葉の重みや説得力みたいなものが追い付かないことが多いと思うんですが…

別分野の大学教授がこうして書いてくれていると、「やっぱり真実なんだ」と確認することができて、心強い気持ちになります。


『生理痛は治せる!』でも触れたんですが、「いかに自分の弱さをさらけ出せるか」は、これからの生き方の鍵になると思います。

私自身がそうだったからこそ、弱さを隠す人、見せられない人は、傍から見ていても苦しいし、痛々しいです。。

胸がキュッとなる。。


必死に隠してきた弱さをさらけ出すことは、精神的にはかなりのチャレンジで、怖いし惨めだと感じることです。

でも、それをやることで確実に未来は拓く。

むしろ、そこを避けて通れないようにできている。。

(魂って、ドS~~!!!)


弱さを見せることで、実際にはみんなが共感してくれ、歩み寄ってくれる。

それを、赤ちゃんが存在を通して私たちに見せてくれる、示してくれるんでしょうね。

う~ん、深い!!!


なんかもう、これ以上うまく締めることができないので…(笑)

今日はこんなところで終わりにします~


私もまだまだ、道半ば。

コミュニケーションマスターを目指して、一緒に試行錯誤していきましょうねーー!




それでは、最後までお読みくださり、ありがとうございます。

今日もあなたにとって、人生の豊かさをたっくさん!感じられる日でありますように。




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