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『ガールズバンドクライ』はハイ・コンセプトな作品たりえるか

前回のエントリーで「『ガールズバンドクライ』はハイ・コンセプト作品ではない」と気軽に書いてしまったのだが、「本当にそうなのか?」と疑問が沸いてきた。そもそも、ハイ・コンセプトとは何か?も含めて、少し本作を振り返ってみたい。


『ガールズバンドクライ』のコンセプト

前回のエントリーで取り上げたが『ガルクラ』は川崎を舞台に音楽活動を行うこと、ルパというキャラが登場することなど、地域密着型であることが重要な設定だとプロデューサーが語っている。

本作の企画時点の骨子は、

  • 音楽アニメであること

  • 今の時代を反映した物語にすること

  • 地に足のついたお話にすること

で、その結果打ち出されたコンセプトが
上京する女の子がバンドをする話
だった。

上京する女の子のバンドの話
(『ガールズバンドクライ』アニメシーズン1・第3話より)

私は
「ということは、ガルクラはいわゆるハイ・コンセプトな作品ではないんだな」
と感じたのだが、よく考えるとこれはハイ・コンセプトだと言えなくもないし、そもそも「ハイ・コンセプトって何だよ?」という点から再確認が必要に思えてきた。

「ハイ・コンセプト」とは何か

少し余談になるが、最近「ネット検索が機能してない」という指摘をしばしば目にする。一知半解の情報が多数出回っていること、そうした情報を鵜呑みにした人がコピペで増殖させること、意図的に誤情報を拡散する不逞の輩がいることなど、いろいろと理由がありそうだが、この「ハイ・コンセプト」についても、言葉の定義は何か?何を意味しているのか?ちょっと検索しただけではよくわからない。
(例えば、「内容を一言で表現できる映画」といった説明が出てくるが、それは表面的なことであって、ハイ・コンセプトがどんな概念なのかの説明にはなっていない)

そこで仕方なく、例の『SAVE THE CATの法則』を引き合いに出すのだが、残念ながらここでも言葉の定義は明示されていない。それでも、理解のヒントになる説明はあり、列挙すると次の通りだ。

  • 元ディズニーのジェフリー・カッツェンバーグとマイケル・アイズナーが流行らせた言葉

  • 彼らのいうハイ・コンセプトとは「映画を見やすくすること」である

  • 今では、ハイ・コンセプトという言葉は時代遅れで、「ハイ・コンセプトは死んだ」とまで言われる(注:原著の発行は2005年)

  • しかし、ハイ・コンセプトを念頭に「どんな映画なの?」という質問に対する答えを真剣に考えるのは(脚本家として)重要

  • そもそも、ハイ・コンセプトという概念自体は古くから存在していた

  • 最近の(ハリウッド)映画は、興行収入の60%が海外からなので、国内(米国)だけでなく海外で理解され、売れることが重要。ハイ・コンセプトという言葉自体は時代遅れになっても、ハイ・コンセプトな作品の重要性は増している

ご理解いただけただろうか? 身近に英語が得意な人がいるので"High Concept"の意味を聞いてみたが、この言葉だけではよくわからないと言う。
そこで、独自解釈が混じっているかもしれないが、私は上記の説明も踏まえて「ハイ・コンセプトな作品」を、

「コンセプト=作品のテーマや意図」の抽象度が高く、国や民族の文化・慣習の違いを超えて、多くの人に理解が容易で、共感を呼びやすい作品

と解釈した。

『ガールズバンドクライ』再考

上述の通り、『ガルクラ』のコンセプトは「上京する女の子がバンドをする話」なので、これだけ見れば抽象度は高い。もちろん、文化的・慣習的に

  • 未成年の女子が親と反目して一人暮らしを始める

  • 大学を目指す約束を反故にして、バンド活動で生計を立てようとする

といった設定が受け入れられないケースはあるだろう。それらを例外とすれば、『ガルクラ』のコンセプトは日本以外の国でも受け入れられやすいと考えられる。

しかし、作品中での表現はどうだろうか。
まず極端な例を挙げると「肥後もっこす」がある。これは過去のエントリーでも取り上げたが、主人公・仁菜と主に父親との過剰な反目は「肥後もっこす」という設定があってはじめて現実味を持つ。単に「頑固な性格だから」というだけでは、物語中盤までの仁菜の極端な言動は理解しにくい。

また、一人で上京した娘が深夜まで音信不通だったのに心配するそぶりも見せず、「うるさか、ほっとけ」と突き放す父親も異常だが、「肥後もっこすだから」と言われればギリギリ理解の範囲内だ。

音信不通の娘
(『ガールズバンドクライ』アニメシーズン1・第3話より)

そもそも「肥後もっこす」の意味を知らない人は日本でも一定数はいそうだし、聞いたことはあっても正しいニュアンスを理解してないケースまで含めると、この部分に関しては表現の抽象度が低いといえる。

次に挙げられるのは、物語序盤の仁菜が予備校に通って大学入学を目指す点だ。学歴社会は世界共通の世情かもしれないが、学歴には固執せず、手に職を付けるなどして経済的に独り立ちすることを重視する価値観は十分にあり得る。

また、すばるが「アクターズスクールでは高卒の資格はもらえない」と仁菜と口論するのも、高卒の学歴が重要であること、その気になれば大学を受験し、入学が可能になるという学歴主義の価値観が前提にあるためで、これも現代日本を舞台にした具体的な、つまり、抽象度が低い表現になっている。

すばると仁菜
(『ガールズバンドクライ』アニメシーズン1・第3話より)

他の例はトゲトゲメンバーがよく行く牛丼屋だ。あのシーンを外国の視聴者はどう理解するだろうか。若い女の子が牛丼屋に行くのは、それがオシャレだからではもちろんない。牛丼が特別うまいからでもない。

ぎゅう どん!
(『ガールズバンドクライ』アニメシーズン1・第1話より)

日本の牛丼屋の立ち位置を知らない外国人が仁菜の反応を見ると、特別なご馳走を食べるかの印象を受けるかもしれない。
しかし、もちろん牛丼はごちそうなどではなく、金銭的余裕に乏しい若者が安価にちょっとした満足感を得られる選択肢の1つだから牛丼屋に行くのだが、こうした表現も日本特有の具体性が高いため、作品をハイ・コンセプトから遠ざける結果につながっていると思う。

以上振り返った通り、ルパ in 川崎も含めて、『ガールズバンドクライ』の設定や作中の表現を評価すると、ハイ・コンセプトな作品とは呼べないと思う。
これは企画の骨子に「今の時代を反映した物語にしたい」という点で当たり前の結果ともいえるが、この作品が今後海外に配信され、外国人の視聴者が増えたときにどんな評判を獲得するのか興味がある。その結果を知る日が待ち遠しい。


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