『リコリス・リコイル』フィクションのトンデモ設定はどこまで許されるのか
『リコリス・リコイル』を見始めた。初見だ。何を言っているのはわからねぇと思うが、私もなぜこの作品を今まで放置していたのかわからない。
まだ第6話までしか見てないので、この先の展開を知っている人は「そうじゃないんだよなぁ」とニヤニヤしながら読んでいただければ幸いだが、この作品を見て、
・フィクションでの嘘はどこまで許されるのか?
・どこまでなら視聴者に受け入れてもらえるのか?
を考えさせられた。
物語創作の原則
フィクションをフィクションとして視聴者に楽しんでもらうにはいくつかのストーリーテリング上の原則がある。それを示唆する著書の1つ『SAVE THE CATの法則』では、「魔法は1回だけ」の原則が提唱されている。
このルールを破った具体例として『スパイダーマン(2002年)』が挙げられているが、
遺伝子改良された蜘蛛にかまれた青年がスーパーパワーを手に入れ、スパイダーマンになる
一方、科学実験を悪用した実業家が同じくとてつもないパワーを手に入れモンスター化する
1つならまだしも、現実離れした魔法を2回も信じろというのは無理だ
というのだが、まぁ、これについては異論は認める。
私はスパイダーマンの設定にそれほど違和感は感じないし、『SAVE THE CATの法則』の著者自身も
でも、『スパイダーマン』は大ヒットだったよな
コミック原作だと、複数の魔法があっても許されるのかも
と言い訳している。
ともかく、物語にあれやこれやとリアル世界と乖離した設定があると、脳の認知機能に負荷がかかって素直に楽しめないのは同意できる。「魔法は1回だけ」の原則が1つの主張として説得力があるのは確かだ。
『鬼滅の刃』の場合
彼岸花つながりということで、まず比較の意味で『鬼滅の刃』を取り上げる。『鬼滅の刃』では、
人を襲う鬼(鬼舞辻󠄀無惨)が誕生する
鬼に対抗するための鬼殺隊が組織される
というのが物語設定上の魔法にあたる。早速2つあるのだが、この設定は表裏一体と考えると無理はない気がする。
また、『鬼滅の刃』に登場する鬼はほぼ西洋のヴァンパイアと同質に表現されており、広く一般に知られた馴染みのあるモンスターという意味では、視聴者/読者の認知負荷が低いという条件に合致している。
ただし、物語が進んでいくと、首を切っても死なない鬼がいるなど当初の設定を覆す展開があったり、無惨にいたっては脳や心臓が複数あるなど、別の「魔法」があらわれて、「おいおい、その設定ほんとに必要か?」という感想があったのも事実だ。
『リコリス・リコイル』の場合
一方で本作『リコリス・リコイル』の場合は、
DA(Direct Attack)という組織がリコリスという女子高生の殺し屋を養成し、秘密裏に、かつ半合法的に犯罪者を始末している
というこれだけでも色々てんこ盛りの設定で物語が始まる。
DA(Direct Attack)は『鬼滅の刃』の鬼殺隊に相当する異様な組織で、ある種のトンデモ設定だが1つ目の魔法とすればここまではギリギリ許容範囲といえそうだ。
ところが、
ウォールナット、ロボ太といった現実離れしたスーパーハカーも登場
主人公(?)の少女は機械の心臓? え?
新たな謎の組織「アラン機関」 何? え??
と2つ、3つ、4つと次々に「魔法」が登場する。しかもこの物語はミステリー仕立てになっていて、
何だかいわくありげなロン毛のおっさん
何だかいわくありげな金髪のおっさん
何だかいわくありげな折れたスカイツリー
などが登場し、視聴者に認知負荷を与えてくる。むーん、私個人的にはこれらの諸設定にはかなりの引っかかりを感じる。DAとリコリスの設定だけで十分に物語を展開できたと思うんですけどねぇ。
まぁ、とても評判の良い作品らしいのでこの先にすごい展開が待っていることを期待しつつ、続きを視聴していきたいと思う。
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