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休職という地獄

倒れてから、まず病院内スタッフで精神科に精通してる方との面談からの病院⇒🏥💉😅
そしたらまさかの適応障害プラスADHD!!

そのまま休職という形となり、奨学金制度で返さないといけないお金ばかりがどんどんズレていく現実。受け止めきれない私。そして、何より辛かったのがこのことを家族に打ち明けるか迷ったこと。

私自身、家族に弱い部分見せてこなかったから驚かれるのではないか、ショックを受けるんじゃないだろうか、偏見で私を見てくるのではないか。色んなことが頭をよぎる。そして上司である師長さんへ報告するのが地獄でしかなかった。

家族に関しては父、妹には伝えて、元々険悪な関係だった母には言わないように伝えてました。
結局、母に言えるようになったのは1ヶ月後のお話。
父は受けれいれてくれたし、妹もサポートしてくれるのが嬉しくもなんだか申し訳なくてたまらなくて。そして最後に「お母さんにも言いなね」の一言。言ったらきっと地元から出させてくれなくなる。それだけは嫌でずっと言えずにいました。
また言おうと思ったタイミングで母が突発性難聴に。突発性難聴はストレスでなる疾患で、私はもう既に感覚過敏(全ての五感が過敏状態)で、「なんて皮肉なことするんだろう」と思いました。

神様、私なんかした?ただこの生活に見切りをつけたかっただけなのに。なんでこんなことするの。とずっと1人で家で苦しい日々を過ごしてました。オーバードーズも考えたけど、看護師としてのプライドが邪魔して出来なかったんですよね。今となってはそれで命拾いしたと思ってます。私が使おうとしてた薬はとても効能が強い分副作用が大きく、1歩間違えれば命を落としかけない危険な薬でした💊

休職中も寝るだけ、処方された薬飲むためにスープだけ飲む生活。寝てる間にもかかってくる上司からの電話。
何もかもが嫌でたまらくて家の周りにはまるでバリアが張られるような状態に見えてて。買い物や通院でさえも苦痛でした。
どんなに死にたくても死なせてくれない家族や友人達。どれだけ迷惑や心配かけただろう。

苦しい苦しい助けて私をもう楽にして。
ずっと1人で思ってた言葉でした。
定期的にくる妹の優しさがたまらなく痛く感じたこともありました。私はこんなことしてもらうような人じゃないのに。

父とは毎日LINE電話して生きてるかの確認。
これもなかったらふっと死にたいと思って死んでたのかもしれません。
この時期も友人はおろか県外の家族さえも会えない状態は続いていて「看護師」という肩書きだけが私を私たらしめてくれてるような錯覚に陥ってました。

時が経ち、友人とも会えるようになり、初めて友人と会った時に心配されました。
中には心配しない子もいました。
人それぞれで感性は違うのだなと思ってました。
中には抱きしめてくれる友人もいてくれて私はこんなに自分を思ってくれる人がいることを初めて知って、なんだか嬉しいような罪悪感あるような。
私なんかにそんなことしてくれるんだ?と不思議でした。

少し時間が経ち、診断されてから1ヶ月経ちました。ずっと逃げてた「母にカミングアウトする」
これが怖くてたまらくて妹と一緒にいる時に電話をかけました。
突発性難聴もだんだん治りかけていた時期だったのもあり、もう隠すこと自体限界だったと思ってました。
もう地元に帰らされてもいい、どうなってもいいからと思い、やっと母へつたえられました。

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