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#考えること

地べたと宙 『宙わたる教室』がとてもいい

NHKドラマ『宙わたる教室』がいいなあと思っている。   主演が窪田正孝だからという不純な理由で観始めた。 「あきらかに今を意識してドラマ化したな」 「ベタやなあ」 と、初回を見始めながら思ってはいた。 でも観終えたときはちょっと違う気持ちになっていた。   学校をテーマにした話ということで、 なにかと照らし合わせたり伝えたり、 そのようなセリフを「押しつけがましい」と感じる人は居るかもしれない。 でも、そのバランスが、演技とも相まって、押しつけがましくない。 空気が、皆の演

清濁併呑とか正しさとかその中でも「ぜったい」なこととか

清濁併呑という言葉を自分で使うことがあまり好きではない。 なんだかそれは言えない言い切れないことや言い切ってはいけないかもしれないことを自分の中で言いきれたような感がするというか、そんな気になりもするから。 でも、答えを一方的に「こう!」と決めつけ押し付けられることは、も、本当に好きではない。違和感を覚える。時にこわさも思う。 ほなどうやねんどないやねん。 だからやはり「一緒に考えていきましょう」なんじゃないかと常々思っている逃げや日和見ではなく。 これもなんかずるい

聞くこと知ることみること 常一とか劇場とか

人の頭の中と心の中が見えたらいいのになあ、 よくもわるくもいいのになあ、と思っていたことが昔あった。 可視化されたら、「わかりやすい」、やん、って。 わかりやすいから、 人付き合いの距離感とかも図りやすいし、ええんちゃうん、って。 愚かである。ええ訳ない。ええこと、ぜったい、ぜんぜん、あらへん。 と、いうことは、SNSをみていても、顕著じゃない? 悪いこと、悪い面だけじゃない、いいこと、いい面もたくさんある、し、 さまざまな面と意味で わたしたちの日常にはもう切っても切り離せ

白とか黒とか『アンチヒーロー』とかバニラアイスとか

正しいとかなんだかんだとか生きることとか考えるようになったのは、 己の身内事(過去から今も)からなんだろうなと思うが、 嫌でも、吐くほどわかりだしたのは、 やはり、旅芝居・大衆演劇、 「生きることそのものの舞台であり芸能」を観て、観出して、観続けて、である(!) そんなこんなでこのnoteにも、 何度か、特に意識したりしなかったりしながらせずに書いてきたりもした。 「勧善懲悪なんて、無い」「いや、ある」「絶対に、ある」 「けど、だから。だから、けど」 と、いう人間にとって、今

種と翼 わかりやすさや考えることや色々をテレビドラマに思う

まとまらないままに書きたくなった。 さいきんのテレビドラマを観ていてだ。   きっかけは朝ドラからだったような気もする。   観ていますか。 SNSでは大絶賛の嵐だ。 うんうん。よくわかる。 でもわたしは初回から観始めて数話進んでいくうちに 「うん」と共に「んー?」を感じるようにもなった。 いい意味で「わかりやすい」んじゃないか、と。 「みせたい側を引き立てるために わかりやすいわかりやすすぎる役割というか設定をされている」 っていうといいかなあ。 それがきっと「良い」のだろ

The Aerial Assassin サンキューマタネウィルオスプレイ

金網の中でのごちゃごちゃ血まみれぐちゃぐちゃ試合をただ観た。 直接会ったこともないその選手のことを勝手に書きたい。   入団したころから観ていた訳じゃない。 会場に足を運んで生で観たことだって両手で数えるほどだ。 新日本プロレス在籍としての最後の試合も大阪だったけれど行かずに配信で観た。   いつの間にか気付けば目で追っていた。 むちゃくちゃだからだ。 なんでそんなに身体張るねん。 知人は見るたびに言っていた。 「やさしいなあ」 どんな選手のどんな技もやりすぎくらい受けまくる

凪良ゆうの『汝、星のごとく 』 「こうである、ことが当たり前」なんて、ない

人は誰しも「思い込み」を持っていると思う。 大きなものから小さなものまで、 言うなれば 「こう、と、されている、ことを疑いすらしないこと、かーらーの固定」だろうか。 その「かーらーのー固定と凝り固まり」が、 誰かをしんどくさせたり誰かにとっての暴力となりもしかねない。 と、考えたことはあるだろうか。 「こうであることが当たり前of当たり前すぎて疑いもしない」 その向こうには、「ではない」「そうなれない、出来ない」ことやものやひと、も、「ある」「いる」。 その絶望や苦しみを考え

不適切とモヤとスタート地点 ドラマ『不適切にもほどがある!』を再び考える

ドラマ『不適切にもほどがある!』が、結構叩かれているみたい。 「せやろな」「せやな」と思った。 1話目を観たわたしはうれしかった。 笑ったり笑ったり、なつかしさを感じたりもしていたから。 時事ネタがではない。 「よく観ていた頃の小劇場」感、がちゃがちゃごちゃごちゃ生き生き感、ギャグやオフザケを散りばめながら「言いたいことを伝える」を感じてだ。 でも、かな、だから、かな。でも、かな。 2話目くらいから「ん?」を思い始めた、「ん?」と「んー?」だ。 「ああ、これは、叩きがいがある

誰かと、時代と、生きること 『不適切にもほどがある!』

クドカンの新作ドラマが昨日から始まったことを知らなくて、 ばたばたが少し落ち着いた??な昨夜、 ネトフリで何か観ようとしたら配信されてた! 観た! じわっと涙がでた笑いながらも。 思うところ考えるところがたくさんと、 ドラマは勿論あの頃舞台とかから観てきたからこそ変遷というか いろいろ思うところがあること、 そのひとが、今、≪こんな≫ドラマを書いて、放送されていること、その内容に、じわっと。 物語は始まったばかりなのだけれど、 いろんなこと思い出したり重ねたりして、もう胸がい

それらはコインの裏表 何とかならない時代のシェイクスピアや近松

今朝「おすすめされていた作家さんの本を買いました」というメールをいただいて、なにかが繋がったような、不思議な気持ちになったのは、 ここ最近、このnoteを思い出していたからかもしれません。 ちょうと一年前に書いたものです。 振り返りネタが続いてしまっていますがサボっている訳ではない(笑) 赦しと復讐とコインの裏表のこと。 シェイクスピアとか近松とか己のことや、 いくつかの本と舞台の話とかと併せて、なんか憑かれたような気持ちで書きました。 ちょっと長いけど、ほんま、いろいろ

声 声なき祈りを聞き分け、形なき心の気配を感じ、結びつくこと

年をまたいで読んでいて読み終わった本が印象深かった。 昨年訪れた書店の〝新聞各紙の書評欄で紹介された本〟コーナーに 1冊だけぽつんと置かれていて何気なく手に取った。 タイトルだけをみて読み始めると「ん?」かもしれない。 〝その本〟〝それだけの本〟ではない、なかった、から。 研究者であり小説家にもなった著者による調査や研究の内容と共に「私」の話が語られる。 というか、あちこちに書かれたものがこの1冊としてまとめられた。 でも、ばらばらな話がまとめられている訳でもない。 この1冊

青い糸

「人生にはいろいろある。でもなんとかなるし、生きていたら、いつか許すこともできる」 「それでも、その生活のあり方の延長線上に、私たちが周りの人にどんなに心を砕いてもどうにもならない地平が、政治によって権力によって現れてしまうのだ、ということを書きたいと思いました」   Yahoo!ニュース本屋大賞2021ノンフィクション本大賞の受賞作、 『海をあげる』の著者・上間陽子さんによる記念スピーチからの抜粋です。   昨日、この本の担当者である筑摩書房の編集者がTwitterにページ

舞台とリングと、人間と 『教養としてのプロレス』のこととか

突然ですが、 わたしはなにかを「絶対にそう」「絶対にこう」とかすること言うことがあまり好きではありません。 たいへんにこわいことであり危険なことではないかなと常々思っています。思うようにしています。 そういった風潮や群れることはなんだかどこか「こわいなぁ」となります。   例えば「なにかが絶対に悪」とか。   みんなが言っているから悪とか、 みんなで言ってみんなで悪にしちゃうってこともとても多くない? だから、どちらか一方に肩入れをし過ぎてしまうことはとても危険じゃないかなぁ

地図と風景、昔と今とこれから

少し前に書いた「近所の古本屋が閉店(一時休み?)」フェアで大量買いしたうちの1冊、なんだか気になって手に取った本がよかった。 『京都みちくさの景色』(文・中村勝 写真・甲斐扶佐義 京都新聞社 1999年) 〝何十年もひとつの町に住みつづければ、人は何枚もの地図をもつことになる〟 それぞれの場所とまつわる人々、記者の目と写真家の写真でつづった50景。 ガイド本じゃない。能書きっぽくもない。変に「どや!顔」も滲んでいない。 ノスタルジーに浸りすぎることはない。 そんな文で(写真