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数学は何の役に立つのか〜sinθcosθは食卓のごはんに変わるのか〜

「sinθとかcosθとか意味不明すぎ。b/aとかで適当にやっとけばいいじゃん」
今からはるか15年以上前、当時高1で数学が三角関数に突入した日。
帰ってきて夜ご飯を食べていた父に、そう話しかけた。すると予想に反して父の言葉が返ってきた。

父「いやいや、俺のsinθcosθがこの飯になってるんだぞ」
これはさすがにポカンとした覚えがある。

ちなみにrとθ、すなわち極座標で表せることに意義があると、もふもふは高校生の間は結局理解できなかった。体感で腑に落ち理解できたのは浪人時であり、直角座標→極座標変換をすればあっという間に複雑な計算をせずに問題が解ける、という経験をしてからである。


数学が人生の何の役に立つのか?

「数学が人生の何の役に立つのか?」
この疑問を抱く子供は多く、それに答えられない大人も多いのではないのかと思う。
今日はめずらしくサウナ記事ではないが、もふもふの持論を展開したい。

と言いながら、実際私自身はその後理系に進んだが、30代となった今、仕事をする日々の中で、sinθcosθはおろか、y=ax+bさえ出てこないのだが。いや、だからこそ、持論を展開したいのかもしれない。


「わからないことを1つずつ読み解いていき理解する力」

私自身が確実に感じている数学で養った素養の1つは、「わからないことを1つずつ読み解いていき理解する力」なのではないかと思う。

わからないことがわかりそうな写真その1、たぶん熱海からみた夜明け。

私は中学の頃から数学が苦手だった。
テストは他の科目ほど取れず、他の科目は5がとれても数学は万年4だった。
ただ、不思議なことに、嫌いではなかった

この「苦手(テストの点はいまいち)なんだけど割りと好き」は中、高と続く。(大学での数学は高校までと分断し、感覚的にはほぼ文章・論理・哲学と化したので言及できないが、、、)
なぜテストで点が取れないのに好きなのか、今だと少しわかるのだけど、「全然わからなかったことが、わかるようになる」という感覚が他の科目より強かったからである


「わからなかったことがわかる」とはどういうことか

わからないことがわかりそうな写真その2、石垣島の桟橋。

当時、他の科目は、「勉強=暗記」感が強かったのに比べ、数学に関しては、「①ルール(公式・定理)を理解し②道具の使い方を覚えて③練習(演習)の上、自由自在に使いこなせるようになる」というステップを感じられていたと思う。

<①ルール(公式・定理)を理解する・②道具の使い方を覚える>
数学の教科書を手に取り、習っていない章を開くと、全く意味がわからないという経験はほぼすべての人がしていると思う。
例えば、
Σ(シグマ) ←数列を習っていない人からは意味不明
(インテグラル) ←積分を習っていない人からは意味不明
なんかである。

意味を知らなければただの記号にしか見えず、そこに意味は見出せない
ただ、一方で1つ1つの記号の意味やルールを知っていけば、なにが書いてあるかわかるのである

高校の数学の先生が言ってたけど、数学は1つの技術や道具のようなものであり、あえて人に盗まれないように、わかりにくい記号にしてたんだとか。本当なのかわかんないけど、妙に納得感はある。

<③練習(演習)の上、自由自在に使いこなせるように>
今思い返せばたぶんこの③が弱かったからテストの点が取れなかったのだと思うのだが、問題演習を繰り返し、最初は使い勝手がよくわからず手元がおぼついていたのが、レシピを見なくても再現し、さらに料理がアレンジできる、のような感じだろうか。


大人になった今、どのように数学が活きているのか

前置きが長くなってしまったが、ここで本題の「数学は何の役に立つのか〜sinθcosθは食卓のごはんに変わるのか〜」である。

私自身でいうと、これは大いに役に立っているのである。

例えば、入社直後によくわからなかった会社の業績資料、社内資料、転職✕異動後急に人事の仕事社会保険や雇用保険の仕事をしなければならなかったとき、省庁の審議会資料、前任者の残したメモなどなどなど…
あげはじめるとキリがないのだが、大人になると、「初見情報なんだけど、なんとか前提知識やら文化やらを自力で理解しながら、なんらかアウトプットを求められる」場面が多々ある

わからないことがわかりそうな写真その3、琵琶湖キャンプ。

こんなとき、記憶の片隅にある、冒頭のsinθcosθで三角関数がわかるまでのことなんかをふと思い出して対処しているのである。

浪人していた予備校時代では、春先は全く授業についていけず、板書をひたすら写経のように書き写し、授業後に自習室や図書館でノートを見ながら解読作業を進めてひとつずつ理解し、またその問題を日にちをあけて解き、類題を探して解き、いずれ過去問で応用版に出会っても、するするといずれ解けるようになった、そんな感覚である。


まとめ・一般化

だらだら記載してしまったが、つまるところ一般化すると、
◯ある一定領域で使われている言葉や定義、前提となる知識、道具を理解
◯最初は読み解くだけで精一杯。言葉・定義・文化はよくわからないけどとりあえず見よう見まねで作業するうちに
◯自分の身体の感覚に理解が追いついてきて自分のものになる。

数学で言う、解読作業とおぼつかないながらその後の演習を勧め、段々と道具を使いこなすその感覚は、大いに今に生きていると思う

※ただし、パターンとか解法とか小手先のものだけだけやたら覚えたりすると、こういう感覚には一生至らない。あくまで根底の概念をきちんと理解するというスタンスが大事。

さらに言えば、個別事象を一般化する力、共通点を紐つける力、例外整理する力、他もろもろなんかもおおいに育っていると思うが、それについて触れるとあと1,000文字とか増えそうなので今日はこのへんで。気が向いたら、また書こうかな。


最後に:父について

sinθcosθがご飯になるって一体どんな仕事だよ、と普通に疑問に思いつつ、当時、なんかすごそーだな、と思ってびっくりしたのは覚えている。
実際には、父は院試不合格、学士卒で企業研究職に潜り込み、企業から大学へ出向して大学での研究の楽しさに目覚め、企業を退職して任期付研究員をしながら実績を作り今の仕事に転職を決め、さらに何年もかけて論博で学位を取ったという猛者である。
そのすごさは、この歳になってヒシヒシと感じている。

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