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人のヤミが好きなだけのももばち誕生秘話から、ももばち企画としての事業を始めるまで

人のヤミが、どうしようもなく愛おしい。

そう思うようになるに至った経緯を説明すると、私の幼少期の生育環境まで遡る。

山小屋のような家で、森と戯れて遊んでいた子ども時代

私は、岩手県遠野市の山奥、父が地域の人たちの力を借りながら、木材を使って自力で建てた、山小屋のような家で育った。

水道は湧き水で、下水はため池で自然浄化していたため、「池のカエルさんが死なないように」と、我が家の洗剤やシャンプー類はすべて天然由来の石けんのみ。
トイレ、生ゴミはコンポストで堆肥にして畑にまき、薪ストーブと薪風呂が主な燃料になっている。
その家には部屋というものがなく、家の中のどこにいても話し声は筒抜けで、ワイワイ騒いで遊びたい幼い時は「うるさいから外いけ」と父に半ば追い出されるように外に出て、2つ上の姉と一緒に、家のまわりの森や沢で、木登りしたり、ススキが生い茂る裏庭に廊下とお部屋を作って「おうちごっこ」をしたり、とにかく自然と戯れながら遊んですごした。

誰もが友だちだった小さな学校

当時通っていた学校は、1学年1人ずつくらいしかいない超小規模校で、たまに見学にくる大人たちは、「お友達が少なくてかわいそうね」と言うけれど、学年も先生も生徒も関係なくみんなが友だちだった私たちには、何が寂しいのかさっぱり分からなかった。

むしろ、他の学年の子たちや学校の先生、時には通りかかった地域の人まで巻き込んでサッカーをしたりするのは、楽しさしかなかった。

運動会も文化祭も、人数は少なくても、その分全員が全力をぶつけて凄まじい熱気に溢れていたし、子どもだけじゃなく先生や地域の人たちが乱入してくるのもまた楽しかった。

傍から見たら「変わっている」「かわいそう」に見えたかもしれないけれど、間違いなくこの頃の思い出は、私にとっての黄金時代で、この時間が私の宝物だったのだ。

学校の閉校、不条理な現実への怒り

そんな宝物のような時間は、生徒数の減少による学校の閉校で、呆気なく幕を閉じた。

閉校の話が出始めた頃、この学校がとにかく好きだった私たちは、帰り道作戦会議を開き、「教育長さんに手紙を書いてみようよ!」と、私たちなりの抵抗を試みていた。

しかし、その後間もなくして、作戦会議を取り仕切っていた男の子兄弟が、親の意向で一足先に統合先の学校に転校することに。

「最後まで俺らにできることやろうよ!」と言っていたその子が、転校式で見せた涙が、どうしようもなくやるせなくて。今でも脳裏に焼き付いて離れない。

どんなに嫌だと叫んでも、子どもは親の決定に従うしかない。

それから間もなくして、学校の閉校が確定し、残された私と姉と中学生の男の子も、その学校から追い出される形になった。

結局、私たち子どもの意見は一度も聞いてもらえなかった。

悔しかった。
この学校に通っていたのは私たちなのに、どうして私たちの声は聞いてもらえないのか。

どうしてすべてが勝手に決められて、子どもはそれに従うしかないのか。

あっという間に訪れた閉校式では、校長先生の提案と直々の指導のもと、在校生3人で太鼓パフォーマンスを披露した。

いろんな感情を太鼓という表現にぶつけてやろうと思っていたけれど、どこか地に足がつかないような気持ちで、私は大きなミスをした。
中学生の男の子がフォローしてくれたので、観客からは分からなかったかもしれないが、私の気持ちは、結局不完全燃焼のままだった。

転校、そして暗黒時代へ

学校が閉校になり、スクールバスで30分くらいの学校に転校することになったが、ここからが私の暗黒時代の始まりだった。

1学年15人。女子は私を含めて4人。初日、同級生の女の子たちが、昇降口まで迎えに来て、「こっちこっち!!」と歓迎してくれた。
そこでふっと肩の力が抜けたのも束の間、休み時間になると、

「昨日のあのドラマ見た??」
「シャンプー何使ってる??」
「どうぶつの森やってる??」
「好きな芸能人だれ??」

好意で話しかけてくれている質問に、何ひとつ答えられず、曖昧に誤魔化していたら、女の子たちは顔を見合わせて首を傾げていた。

これはまずい。
ここまできて、私はどうやら自分が「普通」じゃないということに気がついた。

これまで人からどう見られてるかとか全く気にせず、服はあったかいものを「コーディネート」という概念すら知らずにテキトーな組み合わせで着て、髪は邪魔なのでとりあえず真ん中分けの1つ結びという、今思えば恥ずかしすぎる身なりだったので、
まわりの人たちはチラチラ私を見てはクスクス笑っていた。

ここで生きていくには、「普通」になるしかない。

父親に頼み込んで、他の子たちが見ている面白くもないドラマを見たり、しまむらでまわりの女の子たちが来ていた服になるべく似ている服を探して、少ないお小遣いでなんとか買ったり、これまで父に切ってもらっていた髪を、生まれて初めて美容院で切ってもらったり、姉とお小遣いを出し合ってドライヤーを買ったり、、、

休み時間も、何をしたらいいのか分からず、変な行動をしないようにと、女の子グループのリーダーの子の後ろをぴったりとくっついて歩いていたら、金魚のフンみたいで気持ち悪いと言われたり、、、

なかなか上手くいかなかったけれど、とにかく「普通」になろうと必死だった。

でも、どんなにまわりを真似しても、「普通」への道のりは遠く、完全に学校で「変な奴」認定された私は、なるべく変なことをしないようにと、そればかり考えていた。

同時に、自分が生まれ育った「変な家」を恨んだ。
どんなに私が「普通」になろうと頑張っても、父は泣きわめいて頼んでもゲームを買ってくれないし、みんなが見ているドラマの時間にサッカーの試合やニュースがあると、勝手にチャンネルを変える。ゲイノウジンとやらを知るためにバラエティ番組を見ようとしても、父がバラエティ番組が嫌いだからという理由で見せてもらえない。
みんなが持ってるコレがほしいと頼んでも、「そんなんいらん」と頑なに断られる。

親が変だから私まで「普通」になれないんだと、心底親を憎んでいた。

田舎なので小学校を卒業しても中学校もクラスメイトが変わることはなく、「変なやつって思われてないか」と人の目を恐れる気持ちばかりが膨らんでいく生活が続いた。

唯一救いだったのは、「運動できない奴が入る部活」として認知されていた吹奏楽部に入って、音楽というものに魅了され、没頭した時間だった。
クラスにいたくなくて、朝も昼も放課後も、クラスに拘束されない時間はすべて、音楽室に逃げ込んでトランペットを吹いていた。
吹奏楽部の人たちは、学校のいわゆるヒエラルキーから弾き飛ばされた人たちで、変な圧力がなく、一緒にいて居心地が良かった。

人生やり直しをかけた高校進学と、地獄の部活動

高校進学を考えた時、「普通」になりきれず「変なやつ」認定されている人たちと同じ学校には行きたくなくて、
今度こそ、「普通の人」と思ってもらえるように、私のことを誰も知らない市外の高校に進学した。

ところが、1学年15人だった中学から、いきなり1学年240人、40人×6クラスの高校に飛び込むのは、やはりこわくて、そこでも、なるべく目立たないように、「普通」に見えるようにと気を張って、肩身の狭い思いで過ごすこととなった。

1年もすればクラスの環境には慣れて、キラキラグループでも陰キャグループでもない、クラス内ヒエラルキーを外から傍観する子たちと仲良くなった。仲良くなったと言っても、一緒にお昼を食べたりするくらいで、大して深い話をする仲でもなかった。

高校で唯一選択のミスをしたとすれば、球技が苦手なはずの私が、先輩たちからの猛勧誘に押されて、あろうことかバレー部に入ってしまったことだった。

うちの高校のバレー部は人数が少なく、バレー部の同学年は私を含めて6人。そのうち、元部がバレー部じゃないのは、私ともう1人、元ソフトボール部の子だった。

最初のうちはその子と2人で、初心者向けの別メニューで練習することも多かったが、元ソフト部のその子の上達のスピードは凄まじく、2年生になる頃には、チームトップレベルのレシーバーにまで登りつめた。

一方の私は、ボールのコントロールがいつまで経ってもできず、元々身長が低いからとリベロ(レシーブ専門のポジション)だったけれど、あまりのレシーブのできなさにレシーバーから外され、とはいえ6人しかいないなかで試合に出れないのは可哀想だろうという監督とコーチの計らいで、ピンチサーバーとして1試合1回くらいは出番をもらった。

ところが、ピンチサーバーというサーブで試合の流れを変えるという役割のはずの私は、肩が弱くてサーブがネットをこえず、辛うじてこえても相手にとってのチャンスボールになってしまう始末。

試合中、同学年のエースの子から「自分の役割分かってんの!?」と責められ、
また別の時には、別のチームメイトから「男バレのマネージャーでもやれば?」と、
明らかにこのチームでの居場所を失っていた。

「私さえいなければ」

いつからか分からないが、そんな言葉が何度も頭をこだまする。

消えたいとしか思えなかった高校の部活動で、人生のどん底まで落ちて、うつ状態と拒食の症状から起き上がることすらしんどくなり、学校を休みがちになった。一緒に暮らしていた祖母に欠席の連絡を頼むと、決まって受話器を差し出され、担任から「1人が休むとクラス全体の士気が下がる」「這ってでも来い」「体調管理も自己管理能力のひとつだ」と、弱音なんて吐く余地もない言葉をぶつけられ、
欠席した翌日のホームルームでは、クラス全員の前で怒鳴られ、

今振り返れば、ありえないくらいサイテーな担任だったなと思うけど、その時は自分が全部悪いんだと思い込んで、毎晩泣きながら自分の存在が消えることを祈っていた。

「明日死のう」
毎日そうやって生きていた。

実際、死んでいたかもしれない場面なんていくらでもあって、それでもあの地獄の中で死なずに生きていたことは、本当に奇跡的なことだと我ながら思う。

ヤミを持つ友人との出会い

私の中の時間が動き始めたのは、高校3年生で部活を引退した後のこと。

クラス替えもあって、それまでほとんど話したことがなかった、でも、妙に不思議な雰囲気をまとった子と仲良くなった。

部活がなくなった放課後、美術部だったその子は、いつも美術室に誘ってくれた。

美術部には引退という概念がないのか、その子を含め、何人かがふらっと美術室に来て絵を描いていた。

部活動中だったのだろうに、何もせずに時々その子の絵を描く姿をじっと眺めるだけの私を、だれも不思議がらずに受け入れてくれた。
顧問の先生が来た時も、言葉に詰まって何も言えない私に、「あー見学ね、ゆっくりどうぞ」と軽く声をかけて去っていった。

何もしなくても、いてもいい。
美術室はなんだかすごく居心地が良くて、自分の存在を消さずに、ただそこにいられる貴重な場所だった。

だんだんとその子の家にも遊びに行ったりするようになり、他の子とは話さないようないろんな話をした。

あまり具体的な話を聞いたわけではないけれど、その子はヤミの深い人だった。
生きることの苦しみを知っている人だった。

それもあってか、その子には、私がずっとひとりで考えていたことを打ち明けられるようになっていった。死生観、心の中にいるヤミという奴の話、自分という人間を覆っている壁の話、、、
「普通」なら考えもしないだろう話を、「お前面白いな」と言って聞いてくれた。

その子自身も、少し曖昧にぼかしながらも、その子の心の内や、抱えているものを少しずつ教えてくれた。

その子と仲がいいからと、もう1人、ヤミの深い人と友だちになった。

いつしか、その3人で過ごす時間が増えていき、その時間がそれぞれにとっての救いになっていたのだと思う。

苦しいのは、私だけじゃない

それから私は、人のヤミに興味を持つようになっていった。

私たち3人だけじゃなく、心の奥にヤミを抱えて生きている人が、もっとたくさんいるんじゃないか。
ぱっと見はヤミなんてなさそうなあの子も、心の奥にヤミを隠して生きてるんじゃないか。

ほんとは生きることが苦しいのに、それを隠して、1人で抱え込んで笑って生きてる人がいるんじゃないか。

そういう視点でまわりを見渡してみた時、
居場所がないと思っていたバレー部のチームメイトや先輩、後輩一人ひとりの言動から、その葛藤や痛みが垣間見えるようになった。

一人ひとりと話してみたら、意外な人が、誰にも言わずに抱え込んでいた苦しみを打ち明けてくれたことも。

クラス内のヒエラルキーのトップで、眩しいほどにキラキラしていた子が、信頼できる先生の前で泣き崩れている姿も見た。

苦しいのは私だけなんて思ってたけど、大間違いだった。

大学デビューと、湧き上がるエネルギー爆発

そんなこんなで高校を卒業し、今度こそはと心を決めて、県外の大学に進学した。

この頃の私は、生きることへの執着が皆無になっていて、大学に行ったら、やりたいことだけやりきってさっさと死のう、くらい吹っ切れていた。

ちょっとでも気になるサークルがあれば片っ端から入り、目にしたイベントに片っ端から顔を出し、思いついたその日にサークルや学生団体を次々に立ち上げた。

「なんかすごい大学生がいる」と名前だけが先走り、大学を歩いていると、知らない学生から声をかけられるようになった。

入っては辞めて、作っては辞めての繰り返しの中で、「あいつは続かないからダメだ」と離れていく人もいた。

人が離れていく痛みには弱くて、すごくへこんだけれど、
「どうにもならなくなったら死ねばいい」という最終手段を持った私は、最強だった。

いろんな人と出会い、見えていた世界が一気に広がって、「普通」なんてものは一部のコミュニティの限定的な「普通」にすぎないと知った。

私をずっと縛りつけていた「普通」という価値観から解放され、私はそれまで自分のなかで温めていたものを信頼できる人たちにたくさん話し、仲間を集めて次々に形にしていった。

そうやって自分の中から湧き上がるものを表現した時、それは、今まで私を縛りつけてきた息苦しい世界を変えること、
そして、私たち人間は、表面的な違いを超えて、心の奥底にあるもので繋がり合えるのではないかという希望だった。

それは、私が生まれてきた使命だとすら信じていた。
ここまでこんなに苦しい思いをしてきたからには、こんな私だからできることを遺して死にたい。
私が生きていた証、爪痕を遺して死にたかったのだ。

人のヤミの話を聴き続けて感じたこと

そのために、私にはどうしても検証したいことがあった。

私と同じように、心の中にヤミを抱えている人はどのくらいいるのか。

高校の時から引き続き、私は1対1で話せる機会があると、すかさずその人のヤミを聴くようになった。

表面的な雑談は苦手で、とにかくその人の心の奥に何があるのか、それだけが知りたかった。

今思えば強引なほどに、私は人のヤミを聴くことに執着していた。

何十人もの人と話して、形は違えど、多くの人には、表には出していない葛藤や苦しみ、言葉未満の違和感があることが分かってきた。

そして、相手の話を聴いている中で、自分のヤミと相手のヤミが共鳴する体験を数え切れないほど経験した。

一人ひとりのヤミはもちろん別物で、同じ感覚を感じることはできないけれど、お互いのヤミを分かち合うことで繋がれるものがある。

その体験は、時にはその人の生き方の選択肢を広げたり、悪者にしていたヤミを否定しなくていい存在と捉え直すことで、生きづらさが少し和らいでいくものなのかもしれないと実感してきた。

人のヤミを聴けば聴くほど、自分の手の届かないところでヤミを押し殺して生きている人たちがいるという事実に、悔しさが湧いてきた。

私が生きている間に、あと何人のヤミの話を聴けるだろうか。

そう思うと、無力感に苛まれる。

このままじゃダメだ。

ヤミを押し殺して生きてる人たちが、お互いのヤミを愛し合えるように、仕組みとして広げていかないと、いつまで経っても手が届かないじゃないか!

そうやって、ももばち企画として最初の取り組みとなる「専属ヤミ対話スナック」が生まれた。
遠くの誰かにはまだ届かないかもしれない。

でも、私の知り合いよりもうひとまわり大きく届けられる窓口を作っておきたい。

その上で、それを必要な人の日常まで届けられるような仕組みを、必ずつくる!

そう、心に決めた。

ヤミと共に生きる

世界を変えてやる、失うものは何もないと走り出した大学時代、私は自分の中にいたヤミの存在を隠し、体が動かなくてベッドから起き上がれなくなる時間をまわりにバレないようになんとかやり過ごし、アクティブな側面だけを人に見せていた。

ヤミを見せることで、信用してもらえなくなるんじゃないか、せっかく評価してもらっているんだからそのイメージを崩したくない、
と、ヤミを隠せば隠すほど、立ち止まれない状況に自分を追い込んでいた。

うまく説明ができないくらい、大学時代はカオスだった。
外では超アクティブな大学生で、尽きることのないエネルギーが湧いてくるのに、
同時に家に帰ると、希死念慮が強くなり、どうやって死のうかとベッドの中で死に方をひたすらググったりしていた。

今では考えられない活動量でいろんな活動をしていたが、どうしても朝起き上がることができなくて、体調不良を理由にドタキャンすることも。
そんな自分が情けなくて、頑張れない自分が嫌いで、何かを休んだ日には、「なんで頑張れないの…」と自分を責めて一日中泣いた。

みんなが頑張っていることを自分は頑張れない。
頑張れない自分がずっとコンプレックスだった。

そんなある日、お世話になっていた先輩に「生きづらいんだね」という言葉をもらった。その時は素直に受け取れなくて「いや、そうじゃなくて、私が頑張ってないだけなんです!」と猛反論をしたのですが(笑)、
それからしばらくして、ふと「そうか、私は生きづらいのかもしれない」と心にストンと落ちてきて、今まで自分で自分にかけていた呪いが解けたかのように身が軽くなり、一人ぼろぼろ涙をこぼした。

走り続けることに疲弊して、できていたことができなくなり、すべてから逃げるかのように大学を休学した。

そのタイミングで参加した1週間ひたすら自分と向き合うという合宿プログラムで、私は自分のヤミと正面から対峙した。2日目以降、毎日泣いた。ひとりで泣くことはよくあったけれど、人前でこんなに泣いたのは初めてだった。その中で、私は自分のヤミを否定しなくていいという大きな気づきをもらった。私は私のヤミをぎゅっと抱きしめて、等身大で生きていく
ヤミは隠すべきものではなく、むしろ開示することであたたかいひととの繋がりを紡いでいける

そこで気づいた価値観が、今も私の真ん中にいる。

やっていることだけを話すとよく誤解されるが、私の中のヤミは今も消えていない。そもそもヤミは悪者じゃないから、消さなくていい。
世界がヤミに覆われるヤミ期はもちろん苦しいけれど、そこで充電されたヤミのエネルギーが愛に変わり、また届けたい人のもとへ愛を届けたいという原動力となっている。

私の中にヤミがいる限り、私は手の届かない誰かに、愛を届けようと動き続けるだろう。

今だから言えること。
消えたいとしか思えなかった暗黒時代があったから、
ヤミが大きく膨れ上がりすぎて、走り続けることができずに、立ち止まらざるを得ない経験をしたから、

自分のヤミも否定しない、等身大の生き方をしようと思えた。
ヤミを抱えてるのは私だけじゃないと気づいた。
多くの人が、自分でも気づかないうちにいろんな形のヤミを抱えて、そのヤミを封印して生きてる。

ヤミは悲鳴を上げてるのに笑いながら生きてる人たちの存在に、どうしようもない愛おしさが込み上げる。

どうか、あなたの中の奥にいるヤミが解放されて、あなたがあなたの大切なものを大切に生きられますように。


P.S.
ここまで読んでくださった方には大変申し訳ないのですが、ここに書いたストーリーは、私が体験してきたことのごく一部です。
実は、私のヤミが形成された1番の要因、私にとって1番悲しくて苦しかったことは、公にはできないため、ここに書くことができませんでした。
もし興味を持ってくださったら、個別にお話することはできますので、私のもう1つのヤミストーリーを聞いていただけたら嬉しいです。

いただいたサポートは、自分のヤミも人のヤミも愛しあえる、しんどい時にしんどいと言えるつながりを広げていくための、ももばち企画の事業運営費に活用させていただきます。