東北大震災 その1

平成23年(2011年)3月11日14時46分に発生した東北大震災のときの私の個人的な体験を紹介します。私達家族は当時練馬に住んでいて、私の勤務地は浜松町駅近くでしたので、直接の被害はなかった事を始めにお断りしておきます。

当日は、たまたま地方工場から出張者が東京での会議に来てもらっていました。私は4階建ての事務所の3階で勤務していましたが、下から真上に突き上げるような大きな振動がありました。揺れが落ち着いてから全員でビルの外に避難したところ、浜松町と羽田空港を結ぶモノレールが高架線路の途中で止まっていて、乗客がモノレールから降りて歩いているのが見えた。

TVをつけると都内の主要交通機関は全て全面ストップしたとのこと。事務所近くの第二京浜は大渋滞で車は全く動いていない。これはただ事ではないな、と感じ出張者の帰りのフライトを調べたら、羽田便は全面ストップ。

やむを得ず、近くのホテルに事務所のみんなで手分けして片端から電話予約しようとしたが、電話の応答は、”満室です”の繰り返し。出張者には事務所での宿泊を確保してもらい、今度は、みんなで近くのコンビニに走り、とりあえず水と食料(パンとカップラーメン)だけなんとか確保できた。

私自身は、有楽町から有楽町線で変えるのが一番近道だったが、山手線、京浜線、地下鉄有楽町線もストップ。事務所泊まりを覚悟しましたが、幸い夜半過ぎに地下鉄大江戸線が再開したとのニュースがあり、大門駅に向かったが、入場制限中。数時間待ってようやく地下鉄に乗り込んでみたものの、乗客に押されて息ができず圧死しそうな状態だった。普段の倍以上の時間がかかったが、なんとか最寄り駅についてのは夜中の3時過ぎだったと記憶しています。そこから辛抱強くタクシーを待ち、ようやく家についてのはもう明け方近くだったと記憶しています。しばらくして、当時宇都宮で勤務していた長男も車で練馬まで無事避難してきた。

実際に震災の被害にあわれ、肉親や友達を亡くしたみなさんに比べて、私達は比べてはいけないほど、はるかにましな体験でした。

幸い、自衛隊の練馬駐屯地の近くだったからだと思いますが、その後都内全域で計画停電が行われたにも係わらず、我が家は一度も停電せず、水道も全く問題なくきれいな水がでました。この時、家族と”自衛隊が近くにいてくれて心強いなあ”、と感謝したことを覚えています。

後から分かった事ですが、当時、私の高校時代の友人で陸上自衛隊の将官だった男は、その駐屯地近くの自衛隊官舎に住んでいたが、勤務していた六本木(まだ引っ越ししていなかったかもしれません)の対策本部で1ケ月以上泊まり込みだったそうです。家族を官舎に残したままで、さぞかし心残りだったと、思います。

当時、私は海外営業を担当していたので、各国の大使館や領事館とやりとりしていました。震災後、ほとんどの関係者は東京から避難していたようです。(これは後から聞いた話ですが、アメリカ大使館は、沖縄まで避難したようです。おそらく、いち早く炉心がすでに溶けたことを分かっていたのかと思います。)その中で、イラク領事は震災後も領事館におられ、”各国の大使や領事のなかで東京に残ったのは私くらいだろう、と言っておられたのを記憶します。)


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