にんじんの感触も忘れていた
最近、少しは料理をするようになりました。
といっても、1人暮らしが作るような品はそんな大そうなものではなくて、適当に野菜を切って簡単なスープの素を入れて煮込んだ鍋とか、白米を炒めたり、卵を炒めたり、本当に簡単なものしか作っていないのですが。
昨晩、キッチンでりんごを剥いていました。
聞こえてくるのは自分の手元の音と、暖房のゴーという少し存在感のある機械音だけで、それが妙に不思議でした。
そんな時、思い出したことがあります。
今ではあたり前のように野菜も果物も切れるようになりましたが、一時期は包丁さえも握らなかったことを。
ただ、握らなかったのではなく、握れなかったという方が私の感覚的には正しい。
包丁を持てなかった頃
コロナ禍で大学が長期間オンライン授業となってしまった、2020年~2021年頃。私は心に不調を抱えていました。
病院に行ったわけではないので、正確にはあの頃の私に「○○病」「○○症」みたいな名前はついていません。
ただ。
何もやる気が起きずに、時にはもうこの世界から消えたいと夜に数時間泣き続けていた様子からすると、たぶん正常ではなかったはずです。
コロナ禍より少し前、1人暮らし始めたてだった私。料理もそこそこ頑張っていました。
ハヤシライスを煮込んでみたり、準備と片付けが面倒な揚げ物も作ってみたりした。それはそれで楽しかった。
でも、心に元気がなくなっていくにつれて、何もかもが面倒になっていきます。
外に出かけることさえも面倒で、玄関のドアを開けるのも億劫でした。
そして、料理もその"面倒くさいこと"の1つに入りました。
それでも食べることでストレス発散していたような私。
お湯を注ぐだけでできるものとか、すでに出来上がっているものとか、そういうものばかり食べるようになりました。
いつしか包丁なんて握ることさえなくなっていきます。
だから、握らなかったというよりは、億劫で面倒で、それ以前に生きていることが大変で苦しくて。
包丁を握って料理する余裕などなかった。
持てなかったとは、そういうことです。
ちょっと回復したその後
そこから色んなことがあって、色んな優しい人たちと出会えました。
ある人の優しさに頼って、またある人とのもう1回必ず会うという約束を胸に、私の心は回復に向かっていきます。
(この時の詳しい様子はこちらをぜひお読みください↓)
そして、たしかもう2022年になっていた頃でした。
心が前を向くようになると、いろんなことにも少しずつ意欲が湧いてきて。
ある寒い日に温かいものが食べたくなりました。
久しぶりににんじんと豆腐と油揚げという私の好きな具材を買ってきて、みそ汁を作ることにしました。
家でにんじんを切って思います。
「にんじんって、こんなに硬かったっけ」
長い間、包丁を握らずに料理をする気力も湧かないほど心が荒んでいた私は、にんじんの硬い感触さえも忘れていました。
感触を忘れるほど包丁を握っていなかったことにも驚きました。
けれどそれ以上に、なんなく鍋が作れるほどに何かをする気力や、自分を生かそうとすることに気力が湧いたことを実感してホッとしました。
そのことを、今でも覚えています。
そんなことを昨晩考えながら、りんごを剥きました。
冬のりんごは甘くて美味しくて。
甘さに感動しながらも、色んな野菜も切って、あの日と同じように鍋をしました。
パッとはしないかもしれないけれど、それなりに料理を作って食べて、ちゃんと生活できていることへの感謝を久しぶりに思い出しました。
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