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大沼デパート勤務の思い出

山形唯一の百貨店、大沼デパート本店が閉店した。

「○○年間のご愛顧ありがとうございました。」と従業員一同が頭をさげて挨拶をするような、感動的な閉店の仕方ではない。普通に営業していた次の日にはシャッターが閉まったまま…というような、あまりにも突然で、百貨店の終わり方としてはなんだか寂しく、胸が痛んだ。


10年以上も前のことだけど、私は新卒で大沼デパートで正社員として働いていた。

大沼に就職する前、採用面接で『母が大沼が好きでずっと通っていて、本当に店員さんも商品も信頼している。ここで働きたい』というような事を言ったと思う。面接官の一人(後に当時の店長だと知る)が目じりを下げてポツリと「うれしいねぇ。」と言っていたのが今も思い出される。

初めてフロアに出て一日立ちっぱなしだった日は、緊張と疲労で、足がとにかく痛くて痛くて、引きづるようにして一人暮らしのアパートに帰った。


白地にピンクの鮮やかな薔薇が描かれた印象的な大沼の紙袋や包装紙は、街で見かけるとすぐにわかる、大沼ブランドだった。

ギフト需要がとにかく多いので、日常的にタオルや靴下が入ったギフト箱を何十個と包装する。百貨店方式の包み方は少々練習とコツが必要だ。研修で習い、売り場でも合間に練習を重ねた。うまくなってくると、箱を積み重ねたとき、側面に現れる薔薇の絵柄がすべて揃うようになる。

包装する様子をじっとお客様に見つめられている状況もある。「上手ねぇ。」感心して褒めてくださる方もいた。


一日にそうたくさんのお客様が来店されるわけではない。平日の売り場は閑散としていた。

それでも、初売りやイベントの時はたくさんのお客様がどやどやと来店して、楽しかった。お正月は初売りの福袋を目当てに、階段を走ってくる人もいて、フロアが揺れた。たいてい、子供服フロアから婦人フロア、最後に紳士フロアに人が流れてきていた。お父さんのものは後回し、というわけだ。

ちょっと変わったお客様も時々接客した。出会い頭に高圧的に怒鳴ってくる人もいた。提案するすべての商品に文句を垂れる人もいた。色んな大人がいることを知った。人間観察をしている気持ちで、怖い思いもしたけれどそれも含めて、20歳そこそこの私は楽しいと思っていた。なんだかその時期の私は、無知で、自信にあふれていて、未来は常にきらきらとしたものだった。


従業員同士は、仲が良かったと思う。飲み会なども定期的に開催され、取引先やフロアを超えた付き合いもたくさんあった。皆、気さくで優しくて人当たりのいい方ばかりだった。シングルマザー(ファザー)が多くて、女性の喫煙率も高かった。なんだかかっこよく思えたものだ。

年配の社員は「昔は、よかったのよ~。楽しかったのよ~」が口癖だったけど。景気がよかった頃は、外で酒を飲みながらワイワイ物販をしていたこともあったとか。

宝石や着物やスーツは、定期的に売らなきゃいけなかった。20歳そこそこの若造には顧客がついていないから、自分で買い取ったりしていた。初任給15万円ボーナスなしの一人暮らしには、厳しかった。


私は結局大沼を数年で去ったけど、その頃には早期退職者を募っていて、私がお世話になった上司も退職した。8人いた同期も半分辞め、今はどうしているのかわからない。

経営のことはよくわからないし近年の大沼が色々とあったのはなんとなく知っている程度だけど、少なくとも10数年前、もっと前から苦しかったのではないかと思う。

ニュースでたびたび取り上げられているが、急に元従業員となってしまった方の救済と再就職が早急にできるように、願うことしかできない。

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