曖昧な記憶の記述

たった2年前のことなのに、その気付きに至った経緯をよく思い出せない。
恐らく咲子を始めとする友人達の言葉の中にヒントがあったのだ。
義母の安全を整えること以外何も考えていなかった当時の私が、自分の力だけで答えに辿り着けたはずがないから。
確実に言えるのは、この頃の私は義実家の人間を全員好きで、信頼していたということだ。
だから、同居前日の義姉(長女)の態度について、怒りより疑問が勝っていたのだ。
優しく家族想いな彼女があんな酷い態度を取るなんて絶対におかしい。何か理由がある。

さて、それは一体どんな理由なのか?
2022年の2月から4月上旬に起こったこと、そして主に夫の言動を冷静に振り返れば、答えはそんなに難しいことではない。

さて、同居当日、2022年4月下旬の朝。
夜勤を終えて帰宅した夫に、私はこのような問いを投げかけた。
「ねえさん達は知ってるの?」
「何を?」
「余命のこと。」
「え?そりゃ、知ってるやろ。次女姉ちゃんはずっと母ちゃんの通院に付き添ってきた訳だし。
次女姉ちゃんはいつも長女姉ちゃんとこまめにLINEとかしてるみたいだし。」
夫は目を丸くし首を傾げてた。
それ以上深く話をする時間はなかった。
夜勤明けの夫が帰宅したのは8時過ぎ。
この後は息子を保育園に送り届けたり、
何時に着きそうというLINEや電話のこまめなやり取りをしたり、
同居当日にしか搬入手配ができなかったテーブルセットの打ち合わせをしたり、
などなど、差し迫った現実的なことに関する対応が山積みだったからだ。
それでも私は、夫との、このわずかな会話の中で、答えの尻尾を掴んでいた。

義母の持病に対応できる市で唯一の病院に、義父母、義姉2人、義姉(長女)夫婦、私達夫婦、が集まれたのが、9時半頃。
義母は明らかに無理して作った笑顔で「息子!あんちゃん!よろしくね!迷惑かけるね、ごめんね!」と言った。
義姉(長女)は前日同様の冷たい対応であった。
義父は「母ちゃんをよろしく頼んますねー!」と、何故かニコニコしていた。
義姉(次女)は「あんちゃんごめんね、仕事の調整してくれたんやろ?ありがとう、息子君もいるのに、本当にごめん」と言った。

私達はその後、二手に分かれた。
受診及びその付き添いチームが、義母、義姉(次女)、私。
同居準備チームが、義父、義姉(長女)夫婦、夫。

同居準備チームを見送ったあと、義母と義姉(次女)と私は院内に足を踏み入れた。
検査の為義母だけが病院スタッフに連れられ、義姉(次女)と2人きりになるなり、私は口を開いた。
「次女ねえさん、もし…ごめんなさい、あの…おかあさんの余命の話って、ねえさんも、聞いてるんですよね…?」
義姉(次女)がどんな顔をしていたのかは覚えていない。
でも彼女が、聞いてない、と言ったことは覚えている。

やっぱりそうだったのだ。
『お母さんはずっと元気で長生きしてくれる』
夫がそうだったように、2人の義姉もそう思っていたのだ。
そして今までのnoteを読み返してみると、私自身もそのように思っていた時期があったことが読み取れる。
他人の私ですらそうなのだ。
余命宣告を受けていると知らないなら尚のこと、いつか元の義母に戻ってくれると思ってしまうことは、何にも不思議なことでは無い。

つまり義姉2人にとって私は『おかあさんを病人扱いする悪者』だったのだ。

本来それは主治医か夫であるべきなのだろうが
『余命』というワードを出した責任として、義姉(次女)にそれを伝える役目は私が引き受けた。

「お母さんの病名が分かった時にね、ネットとかで調べたの、3年以内に9割は亡くなるって。
でも、ずっと元気そうだったし。
受診にはいつも付き添ってきた、けどお母さんもいたし…怖くて、聞けなかった…。」
義姉(次女)は言葉を詰まらせながら語った。

病名が分かってから数年。
電話でも何でも、その確認、兄弟間で話し合う時間はあったはずだと思う。
けれど、それについて彼らを責めることはできない。
実子では無い私に、彼らの気持ちの芯の部分までは、絶対に分かることはできないから。
そして、大切な者の『死』を絶対に冷静に受け止めろ、完全に適切な対応をしろ、などと言うことは、私の主義に反する。

しかし、責めないことは、許せるということではない。
知らなかったなら、何を言っても良い、どんな態度をとってま良いだろうか?

もし、真実を知った後、義実家の人間の言動に変化があったのなら、許せる日も訪れたかも知れない。
『おかあさんの為に』という言葉に振り回され、息子を犠牲にする同居生活が、ついに始まる。

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