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戦前、韓国の灌漑に尽くした先人の業績を語り継ぎ、地域創生及び国際親善に寄与する活動を展開する「文化人」”丸山幸太郎”さん

—「壽城池が見えるところに、お墓は韓国風にして埋めてほしい。」
そんな遺言を残した日本人がいます。
戦前、韓国大邱市の灌漑事業に身命を尽くした水崎林太郎(1868~1939)という方です。
その人生や功績を語り継ごうと、昨年秋に生誕地の岐阜市で「水崎林太郎翁顕彰会」が発足しました。
このたびは、その会長を務める丸山教授にお話しを伺いました。

丸山幸太郎さんのプロフィール
出身地: 岐阜県恵那市
活動地域: 岐阜県
経歴: 岐阜大学卒業後、教員を経て岐阜県庁内の「岐阜県史編集室」に勤務。
県史の編纂に携わったのち、岐阜歴史資料館館長に就任。
県内有数の小中学校の校長を歴任し、現在は岐阜女子大学教授。
地域文化研究所長。岐阜学会会長。岐阜県文化財審議委員。
(財)岐阜市にぎわいまち公社代表理事。
岐阜県郷土資料研究協議会長。
岐阜県歴史資料保存協会顧問。
関ヶ原古戦場グランドデザイン懇談会委員。他

ーこれまで、水崎林太郎先生の顕彰会がなかったのが不思議なくらいなんです。

記者 水崎林太郎先生とその業績について教えていただけますか。

丸山さん 水崎先生は、岐阜市(旧加納町)出身でして、
「中山道加納宿」の文化研究についての会報に、地域ゆかりの人物として、明治元年生まれの水崎先生を取り上げたのが出会いの始まりです。
2016年5月、全国ではじめての「水崎林太郎顕彰シンポジウム」を開催しました。

終戦後も韓国で顕彰されている二人の日本人がいます。
ひとりは、浅川巧(1891~1931)
彼は朝鮮総督府の技手で、植林事業に功績を残した偉人です。
山梨県北杜市に「浅川伯教・巧資料館」があります。
そして、もうひとりの偉人が水崎先生ですが、
加納町長や町議を歴任後、1915年に開拓農民として韓国に渡り、水不足で困窮する朝鮮の人々と共に灌漑用の貯水池(壽城池)造成と用水路の整備をした、その業績は地元でさえ知る人ぞ知る存在でした。

彼は大邱の上水道整備もしていますが、壽城池を造った時は、総督府から多額の助成金を引き出した。
当時の日本の役人が「朝鮮の人民のためにそうそう金など出せん」と言ったところを、日本刀持ってドーンと突き立てて「何を言っとるか!」と力まれたんだ。
そして、1万千円(現数十億円)出させて着工した。
6万坪に及ぶ壽城池が完工した後は、1000町歩の耕地を潤す灌漑池になるよう、貧しい農民に代わって彼自身が池のほとりに小屋を建て、12年間用水整備事業に奔走した。

土地改良組合の結成や上水道工事の実施等、本当の意味で命を投じて土地改良をなさった方です。
これまで、水崎先生の顕彰会がなかったのが不思議なくらいなんです。

記者 水崎林太郎先生のその原動力はいったいどこから?

丸山さん 水崎先生のお父さんは、加納藩の藩士でした。
「もう刀をぶらさげとるのはあかん、もうそんな時代やない」と刀を手放して農民になった。武士から農民になるなど大変な決意だった時代です。
お父さんはこれだけの決断をしたんだ、このお父さんの生き方の転換から生きる姿勢を学んだんでしょう。
お父さんの生きる姿勢を引き継いで、農業にこだわった。

水崎先生の人生には「農業を産業の中心とする」という姿勢がちゃんとありました。人の暮らしを支えるものを元に生きるということです。

もうひとつ凄いことは、
「ただ米づくりだけではいかん、これからは、牛乳や花も必要な時代が来る」と、大規模な花き栽培をはじめた。
都市化という新しい時代に合うことをやろうという発想があったこと。
この花き栽培にかける精神は、子孫に引き継がれていますね。

記者 水崎林太郎という方は、
お父さんから受け継いだ決断力と知識と技術力を持ち、先見の明で人を動かした「時代のリーダー」だったんですね。
危機をチャンスに反転できる能力を発揮する働き方。生き方。
お話しを伺いながら随所に発見できます。

韓国の高校生たちの率直な質問は
きついけどありがたかったです。

丸山さん 今年7月に、親善交流を目的に来岐した韓国の高校生ら30名を前に、「水崎林太郎の人生」と題して講義をしたんです。
この子らは、日本語弁論大会で優秀賞を取った学生です。
その子らの質問がきつかったです。

「私たちは韓国の学生として、水崎先生の功績を知り、素晴らしい人と学びました。
これほどの人物について、日本人のとりわけ若い人たちは学んでいますか?」
「韓国では、水崎先生の石碑も建てて立派なお墓もありますが、
日本では銅像や胸像、石碑などがあるのですか?」

きついけどありがたい質問、率直な疑問ですね。
「・・いや、これからです」と言わざるを得なかったです。
これに答えていくのが、これからの私たちの役割ですね。


記者 顕彰会設立にはご苦労が伴ったことでしょう。
どのような心の在り方が現在のご活躍に繋がっているのでしょう。

丸山さん シンポジウムで取り上げたことがきっかけで、
そりゃぁひとつ顕彰会を立ち上げるべきだという雰囲気になってきました。
私なんかもう・・と一度お断りしたんだけど、「とにかくやれ」ということで担ぎ上げられてしまってね、
会長を引き受けることに決めました。
これだけの方のためですから。

昨年春から半年掛けて相談を積み重ねて、4名で準備をしてきました。
岐阜市議会議員 杉山さん
日韓市民ネットワーク・なごや代表 後藤さん
水崎先生のひ孫 元宏さん
そして私。

お互いの経歴を超えて、良き人たちとの出会いがありました。
まさかこんなふうに、どんどん発展するとは思いませんでした。

顕彰会の役員のメンバーは、全員議員さんや社長さんでね・・
はじめは、会の趣旨をなかなかわかってもらえなかったですね。
特に、林太郎の出身の加納町の方が動きませんでしたね。
人のこころを動かすのは、なかなか……

いまやっと、僅かにまわりの皆さんの気持ちが向いてきたかなぁと。
昨年11月に、岐阜市の穴釜墓地に業績を記した顕彰板が設置されたことで、
ようやく再評価の動きが生まれてきました。


記者 これらの活動を通じて、いまの時代に求められるニーズとは何でしょうか。

丸山さん これからお互いに交流が増えてくる中で、岐阜ゆかりの地の案内標識や小冊子も必要になってくるでしょう。
韓国には、すでに伝記の絵本もあるんですが、日本にはありません。
小学生向けの絵本も編集発行したいですし、やがては、顕彰碑の建立も考えています。
それには、機運の高まりが欠かせないと感じています。

日本でも韓国でも
いくら社会情勢が変わったとしてもぶれない方々がいらっしゃいます。
良き人たちとの良き絆を育む力でしょう。

お互いにとっての良い友好関係は、未来にとっても良いものです。
その種を蒔いてくれたのが、水崎林太郎先生です。

丸山さん 灌漑池といいますが、当時は誰も見たことがない。
ないものを新たに生み出して、それが大邱の人々の生活を支えた。
水崎先生は、地域貢献の人です。

「恩」を感じて大事にする、義理堅く、丁寧で礼儀正しい韓国の方々に出会いました。
ありがたいことです。なかなか出来ない姿勢態度で接していただいています。
そこで得た信頼関係を大事に繋げていくことが、国際交流でしょう。



記者 これからどのような美しい時代を創っていけるでしょうか。

丸山さん 「恩」を忘れず「恩」に報いる。
お互いに行き来しながら、人の魅力や街の魅力に出会うこと。味わうこと。
水崎先生の事績は、岐阜のみならず日本にとっての宝。
日本にとっても大事なこと。
いま、日韓の国際関係が良好とはいえない中で、日本と韓国お互いにとっての素晴らしい大切な宝です。

これからも、出会いを大切に
ぶれない人たちと一緒に地道にやっていく、できることをしていくことです。


記者 長時間にわたり、本当にありがとうございました。
昨年12月の「水崎林太郎翁墓地参拝」時のお写真、及び今年4月の追慕祭のお写真を掲載させていただきます。

【編集後記】
実は、今月11/5~7の予定で大邱市寿城区の新区長や新区議会議員12名が来岐予定でした。
しかし、韓国人元徴用工訴訟判決の影響で延期となり、延期後の訪問時期は未定です。
今回は訪問団との間で、岐阜市と寿城区による友好交流の合意書を交わすことになっていました。

訪問団の受け入れに関係していらっしゃった丸山教授にお会いできたのも、この件が延期になったからであり、大変不思議なご縁を感じました。
感謝の思いでいっぱいです。
この記事は、momoが担当しました。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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この記事はリライズ・ニュースマガジン”美しい時代を創る人達”にも掲載されています。
https://note.mu/19960301/m/m891c62a08b36