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【育てない子育て】
※長文です。今、子育てに悩む人に届きますように。
  
私は、子育ては、それぞれの家庭の方針があっていいと考えています。
なので、これが正解、これがダメ、と決めつけることはしません。
 
でも、もし今子育てで困っていることがある、不安がある、
という方がいたら、私の子育て方針を聞くことは
もしかして参考になるかもしれません。
 
これが正しい、というものではなく、
あくまでも参考程度に、「こんな考えもあるのか」と
聞いていただければと思います。
 
ちなみに、我が家には高3の娘がいて、
この子育て法は、2〜3歳くらいから実践しているものです。
 
以下、過去のブログから抜粋して掲載します。
 
 
***
 
 
うちの娘は、小学4年生の時に自分で進路を決めました。
 
「将来は、○○で働きたい、そのためには英語も身につけたいし、
好きな数学を伸ばしたいから、中学校は、○○学園に行きたい」と。
 

その学校は、我が家から往復5時間もかかる遠いところにあります。
 
それでも、「寮に入って、通学の時間の分も勉強する」と言いました。
 

その学校は、難関と言われる学校でもあり、倍率も高かったのですが、
娘は、一度も塾に通わず、独学で受験勉強をして、
見事合格して、今はその学校に通っています。
 
その様子を、時々ブログやfacebookで紹介すると、
多くの方から、「小学生で自分の進路を決めるなんてすごいね」
「たった1人のお嬢さんを12歳で送り出すなんてどうしてできたの?」
などいろいろな言葉をかけられます。
  

娘は現在、勉強や部活、学校生活が楽しくてしかたがない様子で、
学校での成績も良いです。
彼女は、なんでも自分で考えて行動することができます。
  
自立した1人の人間として
私たち夫婦も、彼女のことを遠くから見守っています。
 

もともと彼女が持っていた性質ももちろんあるでしょう。
 
ですが、彼女がこんなふうに自立した考えを持ち、
自ら勉強するようになったのには、私たちの育児法が
少し変わったものだったからかもしれません。
 

私たちが、どんな風に子育てをしたのか、
 
それは、一言でいうと、
 
「手をかけない、口を出さない、育てない子育て」です。
 

放任主義だったわけではありません。
 
可愛い一人娘です。十分な愛情を注いで育てました。
 
でも、私たちが「引き算の子育て」を心がけることで
娘は、「自分の人生は、自分で作るんだ」という意識をかなり早い時期に持ちました。
 
 
***
 
 
娘が、ヨチヨチ歩きを始めた時のこと。
 
オムツで大きくなったお尻で、一生懸命自分で歩こうとする娘。

 
私たち夫婦が見守る中、何度も転びます。
 
駆け寄りたくなる気持ちを抑えて、転んだ娘が立ち上がるのを、私たちはニコニコしながら見ていました。
 
 
すると、娘もニコニコしながら、自分で起き上がります。
 
それを何十回も繰り返すことで
 
娘の中には、「転んでも、また起きればいい」
 
という図式が出来上がります。
 
 
彼女にとって、転ぶことは、悪い事でも痛い事でもなく、
 
ただの「出来事」としてインプットされます。
 

それを、大人が、転ぶたびに駆け寄って
 
「わー転んじゃったの!」「痛かったねえ」
 
なんて言うと、娘の中には、
 
「転ぶと→痛い」
 
「転ぶ」=「良くないこと」
 
という刷り込みが出来上がります。
 

実際、娘は、転んでもほとんど泣く事もなく、
 
たんたんと起き上がり、痛がることもありませんでした。
 
出来事には、「良い」も「悪い」もなく、
 
それに意味を付けるのは、大人の価値感。
 
大人の価値感を子どもに押し付けることの弊害は大きいです。
 
 
子どもは、真っ白なキャンバスのようなもの。
 
可能性も無限にあります。
 
 
そこに、「これはよくないこと」「これは失敗」
 
「これはダメ」「普通はこうだよ」「はずかしいね」etc. etc...
 
大人が言う事で、子どもは素直にそれを信じます。
 
この刷り込みは、子ども時代だけでなく、10代になっても20代になっても、その子の価値感となりしみ込みます。
 
 
出来事を、ただニュートラルに見ることができれば、
 
自分で自分の可能性にふたをすることもないのに、
 
小さいうちから、大人の声がけで、
 
子どもは、「おそれ」とか「恥」とか「緊張」とかから
 
本来の自分に1枚ずつベールをまとってしまいます。
 
これは、ゆくゆく「思い込み」となっていき、なかなか剥がれません。
 
 
だから、私たち親は、子どものニュートラルな捉え方の邪魔をしないように、余計な口出し、手出しをしない方がいいと思っています。
 
  
子どもには、いろいろなことを経験する権利があります。
  
転んで痛い思いをする経験から学ぶことはたくさんあります。
 
次から、自分で考える事もできるようになります。
 
 
親が、危ないからと言って、目の前の石をどけていたのでは、
 
いつまでも子どもは安全な道を歩くことしか知りません。
 
石につまづくという経験をさせてもらえない子と
 
石につまづいて、そこから何かを学ぶ子。
 
どちらが、自立的な人間に育つでしょうか?
 

親は、「自分で物事を判断できる子」になるように
 
我が子に育ってほしいと言います。
 
でも、ついつい子どもにとって、「考えなくていいように」
 
手を出し、口を出してしまうんですね。
 
もちろん、大人はすぐに先のことが想像つくので
 
言いたくなるし、手を出した方が早いです。
 
そこを、ぐっとこらえて、見守るのが、「育てない子育て」です。
 
育てない子育ては、楽でいいと誤解されますが、親の忍耐が試されます。
 

***
 

「育てない子育て」のベースにあるのは、
 
相手への愛情と信頼です。
 
これがなかったら、ただの育児放棄、無関心になってしまいます。
 

相手が子どもだろうと、しっかり相手を尊重し、
 
選択する自由を与えることが大切なんです。
 
 
***
 
 
少子化の現代、どうしても子供に意識が向きがちです。
 
自分の子供には、少しでも幸せな道を歩んでもらいたい、
 
それが親心ですよね。
 
 
でも、現代の子育ては、「足し算」の子育てになっています。
 
テレビや雑誌やネットなどから、子育ての情報もたくさん
 
入って来て、「あれをするといい」「これもしなくちゃ」
 
と、いいと思われることをやらないと気が済まなくなっています。
 

私がやってきたことは、とてもシンプルで
 
口を出さない、手をかけない、育てない
 
の引き算の子育てです。
 

子供に対する愛情があるからこそ、自信をもって
 
自分たちの子育て法を実践してきました。
 
 
先日のブログに、1つのコメントが来ていて
 
ちょうどいいので、一部引用させていただきますね。
 
「でも口を出さないと、お風呂にすら入らないし…

放っておいたら5日入らず、6日目に私が切れました。

困ったものです==;

状況を変えたくて、お話聞いてみたいと思いました。」
 

これに対して、私が返したコメントがこちらです。
 
「お風呂に入りたくないなら、いいんじゃないでしょうか。

自分でまずいと思うまで放っておいてもいいと思います^^

自分で汗臭いとか、ばっちいって気づけば入るんじゃないですか(笑)

今は、「親に怒られるからお風呂に入る」という、

「誰かのせい」モードだと思います。

お子さんがお風呂に入らなくて困るのは誰ですか?

たぶん、今の文章の感じだと、

「親の役目を果たしていないと思われる自分」

なんじゃないでしょうか?

お子さんの人生は、お子さんのもの。

痛みも気づきもお子さん自身で感じないと、

自分の人生ではなく、誰かのための人生を生きることになります。

状況を変えたいと、お子さんが思わなければ、

いくらお母さんがやきもきしても変わりませんよ^^」
 
 
私が言う「手を出さない」「口を出さない」というルールは、
 
実は、お母さんにとっては、最初はとっても苦しいです。
 
だって、手や口を出した方が、早いし、簡単なので
 
長い目で見守るという長期的な視点がなかなか持てません。
 
 
娘が小学校2年生の時です。
 
学校の宿題を、娘がやりたくない、と言いました。
 
私「どうして今日は宿題をやりたくないの?」
 
娘「やりたくない教科の宿題で、やる気が起きないから」
  
私「やりたくないなら、やらなくてもいいとママは思うよ。
 
やらないと、どうなるんだと思う?」
 
娘 「先生に怒られる」
 
私 「そうだろうね。やらないことの責任を自分で取るならやらなくてもいいと思うよ。
 
宿題をやって、先生に怒られない道を選ぶのか、やりたくない気持ちに従って、宿題をせずに先生に怒られることを選ぶのか、自分で決めてごらん」
 
その日、娘は、宿題をしませんでした。
 
 

 そして、次の日に案の定、娘は宿題をしないことで

黒板に名前を書かれて、怒られたそうです。
 
 
当時、娘のクラスでは、連帯責任を学ばせるために、
 
担任の先生が、班ごとにグラフを作っていて
 
1人でも宿題をしない子がいると、その班は
 
その日は、丸がもらえない仕組みになっていました。
 
 
当然、娘は班の子たちに責められました。
 
「おまえ、なんで宿題やってこないんだよ!」と。
 
 
娘は、自分で、宿題をしないと、いろいろな責任を自分で負うんだ、ということを学びました。
 
以来、宿題をしたくない、と言う事はなくなりました。
 

 
が、この話にはまだ後日談があります。
 
その週に、たまたま同じクラスの子のママと会う機会がありました。
 
そこで、そのママが私に言いました。
 
「娘に聞いたんだけどね、お宅の○○ちゃんが、宿題をしないせいで
 
班の子に迷惑がかかっているらしいの。
 
ママから、○ちゃんに宿題をするようにちゃんと言ってね」
 
 
たぶん、軽い気持ちで言ったのでしょうね。
 
当然、私が「ごめんなさい。そうさせるね」
 
という事を100%期待していたのでしょう。
 

でも、私の答えは、
 
「うちは、宿題をするかどうかは、本人に決めさせているの。
 
本人がやりたくないのなら、私からは言えないから」
 
そのママは、目を白黒させていましたね(笑)
 
 面倒な人だと思われたかもしれません。

こんなことを言うお母さんは少数派なんだと思います。
 

 
我が家では、自分の責任は自分で取るという習慣を
 
小さい時から付けさせていました。
 
親の価値感で方向付けをすることもしませんでした。
 
「これが正しいから、これをするべき」

なんて、恐ろしくて、私は誰に対しても言う事はできません。
 
 
それが、正しいなんて、誰にもわかりません。
 
何か言うとしたら、「ママはこう思う」と自分の意見として
 
言う事はありますが、あくまでも、判断するのは自分で、
 
というスタンスで接していました。
 
 
我が家は、家庭内での会話は多かった方だと思いますが、
 
全員、B型だということも関係しているのか(笑)、
 
あまり人のことには口を出さない、聞かれたら意見は言う、
 
という距離感が存在していた気がします。
 
 
だから、娘の進路のことも、
 
親の私たちが口出ししたことは一度もないのです。
 
 
中学から遠い学校に行って寮に入ることも、
 
それが「いい」とか「悪い」というジャッジは一度もしませんでした。
 
 
娘が、受験に受かり、家族全員で喜び合った時にも、
 
「離れて暮らすの、ママ寂しいなー」と自分の気持ちは言いました。
 
実際、娘の卒業式から1ヵ月は、毎日寂しくて泣いていました。
 
そんなとき、娘は
 
「ママ、大丈夫だよ!毎週帰ってくるんだし!元気出しなよ!」
 
とたくましく笑っていました。
 
 
彼女にとって、実家は、「いつでも安心して帰れるところ」
  
という揺るぎない気持ちがあるので、平日は、少しも寂しくないそうです。
 
 
新しく覚える勉強や、寮のお友達、部活の先輩たちとの時間はとても楽しそうです。
 
 
先日、寮の先生からメールが来ました。
 
娘の寮での生活について、月に1回メールをくださるんです。
 
そこには、
 
「○さんのお部屋はいつもとてもきれいで、

まわりのお子さんにも影響を与えているようで、

同室になった子がみんな部屋を片付けるようになりました。

○さんには、今月、クリーン賞を授与しました。

そして、寮の事務室にもいつも明るい笑顔で挨拶してくれて、

私たちを楽しい気持ちにさせてくれます」
 
 
と、娘の様子を細かく書いてくれていました。
 
 
ちなみに、娘の学校には、校則がありません。
 
制服もありませんし、服装なども自由です。
 
 
で も、いつ学校を訪問しても、子供達は大きな声で挨拶してくれ、

風紀が乱れていることもありません。
 
 
自由があるということは、自分で責任も取るということ。
 
娘が、この学校の空気を感じ取り、ここに行きたいと決めた理由が
 
今ならよくわかります。
 
 
私たちの教育方針と、この学校の教育方針は一致していました。
 
「自分の人生は、自分でつくる」
 
「自分の人生の責任は、自分にしか取れない」
 
 
***
 
 
親は、誰しも、子どもの幸せを願っているもの。
 
目の前の小石をどけて、子どもが転ばないようにするのが
親の愛情なのか?
 
転ぶことで、子どもがするはずであろう「経験」をさせるのが
親の愛情なのか?
 
 
大人であろうと、子どもであろうと
人生は主体的に創り出せるものだと私は考えています。
 
 
子どもを心配するというのは、子ども本人の能力を
「信頼していない」ことの表明です。
 
「あなたは、一人では何もできない。
だから、ママがやってあげないと!」
 
というメッセージが、非言語で子どもに伝わります。
 
そんな子どもが、将来、主体的に生きられるでしょうか?
 
自立して生きていけるのでしょうか?
 
そして、依存的で、なんでも人のせいにする子どもを
作り上げたのが、無意識だとしても母親だとしたら、
おそろしいことですよね。
 
 
私が口を出さない、手を出さないのは、
「娘は、できる」
と彼女を信頼しているからです。
 
失敗したとしても、その失敗を乗り越え、
その経験を彼女は生かすことができる、と
信頼しているからです。
 
子どもの人生を信頼しているのです。
 

そして、母親である私は、
「人生ってすばらしいものだよ。
大人になると人生はもっと楽しくなるよ」
と子どもに見せているのです。
 
自分の人生を精一杯生き、楽しんでいる姿を見せることで。

 
母親が、子どものために無理して、我慢ばかりしていたら、
「大人になるって、親になるって、我慢ばかりで大変そう。
大人になんてなりたくない」
と子どもに思われてしまうから。
 
 
***
 
 
そんなふうに15年育てた娘は、
どうなっているかというと。
 
先週の母の日に、彼女がくれたメッセージです。
 
***
 
私の母は。
 
眠い時は寝る、食べたい時は食べる。
イライラしてる時はとことん不機嫌、ウキウキしてる時は引くほど上機嫌。
 
動物みたいで面白いねって、見てて飽きないよねって、父とよく話す。
 
やりたくないことは、無理にやらない。
好きなことを、好きなだけやる。
 
母の生き方を見て、そうやって自由に生きることが普通だと思って生きてきたけど。今の世の中では、それはどうやら難しいことらしい。
 
絶対、自由に生きた方が楽しいのにって、思う。
 
父が言うには。これからの時代、自分にしかできないこと、つまり「強み」を持っている人が強いんだと。それってつまり、自分の好きなことを極めた人。やりたいと思ったことを好きなだけやってきた人。
 
私が見てきた母の背中は、しっかりとそれを証明してきた。
 
何かに縛られて、世間の「当たり前」に流されて、自分の才能に気づかずに生きていくなんてもったいない。自分の才能には、自分で気づかないと。
 
そう思ってから、私もチャレンジすることが増えた。中高6年間で、いくつもの「新しい経験」と「楽しいと思えること」を発見してきた。これらが私の人生を動かすピースになることを、私は知っている。
 
全ては母が教えてくれた。
 
50歳の誕生日おめでとう。最近、朋子と拓朗の子供で良かったと思うことが増えたよ。その、塾長MOMOとして話をしている時の真面目な顔も、家族の前で誰よりも幸せそうに作る笑顔も、母としてと言うよりかは、一人間として素敵だと思う。私が大学に入ったら、母の仕事をもっと詳しく知ってみたい。
 
それから、毎年のことだけど、今日は母の日。いつもありがとう。これからも好きなことをして生きる、私の理想の母でいてね。
 
個人的に、見てるだけでこっちが笑顔になるような写真を選んでみた。毎年SNSでのお祝いでごめんね。
 
2018.5.13
 
 
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