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鹿児島で30有余年!うどん屋の半生の話。

おはようございます😃

今日は"うどん屋のオヤジのひとり言"を🤗

かなりの長文になりますが、よろしかったらお読みいただければ幸甚です😅

社会人としての第一歩

私は、大学卒業後最大手の製パン会社で13年お世話になりました。
製パン会社では、主に営業部門で仕事をしてました。製品開発・営業企画・苦情処理・店舗開発(専門店、コンビニ店、サンドイッチ店、ドーナツ店、焼き立てパン店などなど)
この間、ヤマ○○イズムを徹底的に叩き込まれました。

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①食品製造の基礎知識
②ビジネスマナー
③仕事に対する"物の見方、考え方"
④顧客満足度を高める為には投資を惜しまない事
⑤市場調査、事業計画の立て方
⑥営業マンとしての考え方、商談の進め方、応酬話法、クロージング法などなど

ヤマ○○イズムは、今もマメノヤイズムとして弊社に受け継がれています。

しかし、30才の頃から次の思いが出てきました。
 ・商談相手である経営者達の考え方のスケールの大きさ、自己責任で経営判断する自由さなどが羨ましい…。
 ・組織に馴染まない性格…。
 ・紙1枚で全国に転勤させられる我が身の哀れ…。
 ・もっとも、大きかったのは"桜島の見える所"で生活したいという望郷の念…。

実父と義理の父に相談したところ、商売をやっていた実父からは反対されました。ところが長年企業で獣医として勤め上げた義理の父からは"やった後悔よりやらなかった後悔の方が大きいよ。男の夢を追いなさい"と勧められました。

それから3回退職願いを書き35歳の時、やっと退職届けが認められて退職する事ができました。

独立までの紆余曲折

家業でも手伝おうかと呑気に考えていましたが、既に兄が家業を継いでおり、実父からも反対されそれから"さてどうするかな"と考えました。

そうだ!経験のあるコンビニ店をやろうと思い、路面電車の通りの角に売りに出ていたある場所にマンションを建て、1階でコンビニをやる事業プランを立てました。早速綿密な市場調査を行い、完璧な事業計画書を作成し金融機関に持ち込みました。

案の定、剣もほろろに断られました。いくつの金融機関を回りましたがどこからも相手にされませんでした。

(今思えば若気のいたりですが😅 ただ、その後その場所にはロー○ンが出店し、32年経ってもその店舗の周り500m以内に競合するコンビニは出店しておらず、続いています。私の市場調査と立地選択は間違っていなかったのを証明してくれいます😅)

最後に当時プロパン販売会社を営んでいた父に投資してくれと頼みに行きました。

父: コンビニ店てのはプロパンを使うのか?
私:  嫌、使わない。でもマンション全体では使いますよ。
父: (長考の後)事業をやる時は"引く事"を考えてやれ!
最初から大きな投資はするな!プロパンを月10万円以上使う商売をするなら俺が連帯保証人に立ってやる!ただし1000万以内だ!付き合いのある銀行に話をしとくが、将来的にも他から借りるな!金融機関には、絶対にウソをつくな!金融機関には常に"金は借りても、貸しを作っておけ"!そうすれば金融機関は死ぬまで面倒をみてくれるから!うちのプロパンの事業部門としてやれ!

当時、私には妻と幼稚園に通う長女と生まれたばかりの次女がおりました。

当時は、バブル後期で世の中は健康・和食・高級品がキーワードでした。粗利の高い日銭商売を考え、経験のある粉物を扱ううどん屋かラーメン店をやろうと考えいろいろなフランチャイズを調べましたが、うどん屋ラーメン店などは契約後脱退する事例が多い事に気付き、当時話題になっていた"高級豆腐"のフランチャイズを見つけ本部と交渉し、契約。

平成元年5月に、父のプロパン事務所の隣りの倉庫を改装し豆腐の工場を作り、『豆乃屋』を開業、同時に、紫原に豆腐料理専門店『豆乃屋紫原店』を開店。
元営業マンの交渉術を使い当時の鹿児島三越(現在のマルヤガーデンズ)の地下に『豆乃屋鹿児島三越店』を出店を果たしました。当時、マスコミにも取り上げられて話題にもなり大盛況でした。ところがまもなくバブルがはじけて紫原店が閑古鳥が鳴き始めました。

方針転換

この設備で何か出来ないかと当時製パン会社の営業本部長をやっていた叔父に相談。当時、その製パン会社が工場近くでやっていたうどん屋が大当たりしていたので『うどん屋』をやる事に決め、即 香川讃岐に行きうどん屋に飛び込み事情を話し修業させていただきました
当初は最低半年かかるいわれましたが、元パン屋での粉の扱いと接客の経験もあり3ヵ月ほどで修業先の師匠からお許しをいただき帰鹿。

早速、紫原店でうどんも始めました。ところが借りていた大家が『将来、ここは道路計画があり立ち退きになるけど知っていましたか?』と言われ『オイオイ❗️なんで契約の時に言ってくれなかったんだ💢』ともめるハメに…。
(ちなみにその店舗は32年経った今でもありますが🔥💢)

そこへ先ほどの叔父から、地元大手のショッピングセンターがテナントを探しているから移転しないかと言う話が舞い込み、即、決断。平成2年の11月に移転し『豆乃屋南栄店』を開店。同時に豆腐事業から撤退。自分がうどんの仕込み・出汁取り・開店から閉店まで店に立つようにしました。

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【鹿児島のうどん屋】になるために

ところが、お客様から『うどんは旨いけど、出汁が物足りない』との声が出始めました。そこで基本的な出汁の取り方は師匠から教わった方法を守りながら、具材の見直しを始めました。讃岐では、昆布といりこだけで取っていましたが、花カツオ節などなどを加えてて試しましたが、お客様がやはり出汁を残します。ほとほと困っていたころたまたま妻と二人で幼い頃から通っていた近所のおでん屋さんに飲みに行ったところそこのオヤジさんから言われました。

オヤジさん: うどん屋始めたらしいけどどうだい?
私: 出汁で悩んでいる。
オヤジさん: 味をお客に合わそうと思っていないかい?それじゃダメだよ。自分が旨いと思う味にしなきゃ!それでもお客が残すようなら、アンタうどん屋辞めな!舌の才能が無いんだから!

目からウロコが落ちる音が思い❗️

早速、自分が旨い!という出汁作りに取りかかりました。中身は企業秘密なので書けませんが、そのうちにほとんどのお客様が出汁を飲み干してくれるようになりました。

それが今の当店自慢の出汁です。ホントに"魔法の出汁"です。ボディがしっかりしていますので具材の旨みを充分引き出してくれます。おすましにも出汁巻にもおでんにも!

(ちなみに今、埼玉に住む次女が、当店の出汁を送ってくれとちょくちょく頼んできます。2才2ヵ月の初孫がジィジの出汁で料理しないと食べてくれないと😅うどん屋&ジィジ冥利につきます!)

そのうち、南栄店はランチタイムに行列ができ始め超繁盛店になりました。(専門的な話しになりますが、16坪、20席、損益分岐点売上月200万円の店舗で550万円☆坪効率34.4万円強といううどん屋の数字がいかに凄いのかをご同業の方にはご理解いただけるかと😅)

その後、紆余曲折ありましたが、この鹿児島の地で30有余年うどん屋を続けることができ、地元の皆様にも「豆乃屋のうどん」を受け入れていただけるようになっています。

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行き当たりばったりの我が人生!でも・・・

時々、あのままヤマザ○パンに残っていたらどう人生だったろうかと妻と話します。妻は、「間違いなく体を壊して入院していたわよ!」と言います😅
当時の同僚はみんな子会社の社長さんになっていますが🤣
ちなみに一年後輩が、今、叔父の勤めていた製パン会社の社長さんしてます😅

でも我が人生に悔いは無し❗️
天職に出会え、素晴らしい従業員達やお客様達と出会えたのですから🤗

まだまだ、書きたりないのですがこの辺で😊

続きはまたの機会に

最後までお読みいただき誠にありがとうございました🙇‍♂️

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