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初体験


 私はついこの間、ある男性と性行為をした。その男性は、行為を行うつい三時間ほど前に出会った人だった。出会い系のアプリを使い、一キロ先にいる彼に何の躊躇もなく会うことができたのは、自分でも驚いた。顔写真すら乗ってないのに何の疑いも持たず何気なく会った。


そして襲われた。


 何の疑いを持ってなかったわけでもなかったし、そういう行為をするかもしれないという漠然とした不安もあった。でも、なんとなく、本当にびっくりするほどふわふわした気持ちで彼にあった。待ち合わせ場所に行き、特徴のない顔の男性と落ち合い、することもないからと彼の車に揺られていた。一時間ほどの目的のないドライブで何を話したかなんてこれっぽちも覚えていない。ただ常に自分の中に「何をしているんだろう」という思いが立ち込めていたのを覚えている。


 ドライブをしながら車でコンビニのおにぎりやお菓子を食べたら家でお酒でも飲みながら映画を見ようといわれた。私はまだ18歳。もちろんお酒も飲んだことはない。でもついていった。彼の部屋に何の躊躇もなく入れる自分にも、驚くほど散らかったその部屋にも心底呆れた。そしてどうでもよくなった。部屋で映画を垂れ流し、お酒を飲みふけっているときの彼がひたすらにその機会をうかがっているのが手に取るように分かった。そして案の定押し倒された。彼がどうしてこんなに興奮しているのかわからず笑ってしまった。その笑いは、彼に行為の許可を与えてしまったらしい。その行為は痛くて、男の体温が気持ち悪くて、決して良いものではなかった。友人らがセックスフレンドなどという関係を結んでまでするような行為には到底思えなかった。


 「初めては感動した。」そんなことをいう友人がいた。その友人が私の初体験を聞いたら絶句して縁を切られてしまうだろう。だからこのことを友人らに話すことは今後一生ないだろう。好きな人との性行為が善とされている世界線では私のような人は、薄汚く、浅はかな人間に思われ軽蔑されるだろう。


 なんで出会い系を入れたのか、なんでどこの馬の骨かもわからない男性とあってしまったのか、なんで家に入ったのか、なんで行為を許してしまったのか、そのなんでの根底にあるものはすべて好奇心とい形のない厄介な塊だ。私は昔からそうだった。「ちょっとやってみよう」その思いがいつになっても消えなかった。小さい頃は好奇心旺盛な子だとよく褒められもした。でも大人になるにつれてその好奇心は邪魔なものへと変化していった。たくさんの好奇心に包まれていた子供の時代に少しずつ捨ててこなければならなかったものを私は捨てることができなかった。


それは悪なのか。それとも善なのか。きっと私が理解できる日は来ない。

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