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【人相学】『武者鑑』阿古屋/惡七兵衛景清/無官大夫敦盛/玉織姫

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『武者鑑 一名人相合 南伝二


阿古屋あこや
阿古屋あこやは、清水せいすいほとりに 住居すまゐせし しら拍子びやうしなりしが、景清かげきよ馴染なれそめて、比登ひとまるいへ女子によしうめり。その こゝろざま やさしく 貞心ていしんふかき女なりしが、景清かげきよ鎌倉かまくらとらはれ、そののち 日向ひうがくに流刑ながされしときゝ、大いに なげかなしみ、幾程いくほどもなく やまひに かゝりて す。

阿古屋あこやは、美人びじんきこへはあれど、その さうはしらず。その 比登ひとまるさいときひだりの びん白髪しらが すこはへたりしに、父 景清かげきよ生別いきわかれ、其後そのゝちまた みぎびん白髪しらがはへしに、はゝ 阿古屋あこや死別しにわかれしといふ。すべて相法さうほうにとつては、十五才 うち白髪しらが ふものは、両親りやうしんえんうすしといへり。もつともこゝろ すぐなるときは、悪相あくさうかへつて ぜんとなるべし。


惡七あくしち 兵衛びようゑ 景清かげきよ
景清かげきよは、平家へいけ老臣らうしん 上総かづさの 兵衛ひようゑ 忠清たゞきよの 七なんなるが、勇をかねて、こと忠敢ちうかん将士しやうし也。平家へいけほろびてのち鎌倉かまくらねらふこと、かの しん豫譲よじやう孤忠こちうたり。

頼朝よりともそのちうかんじて、いのちたすけて 日向国ひうがのくにながすに、かのくににて 盲人もうじんとなりて すといへり。ゆへに、日向ひうが勾當こうたうといへり。

景清かげきよは、相貌さうぼう 正然せいぜんとして、いろしろく、青髭あをひげ 繁茂はんもして、眼中がんちう くわう かくるごとく、しかたか筋骨きんこつ たくまして、不疲やせず不肥こへずまこと武士ぶしにとつては ごく美男びなんとも いひつべし。

※ 「しん豫譲よじやう」は、春秋戦国時代の人物で、敗死した主君の仇を単身討とうとしますが、遂に果たすことができませんでした。


無官むくわん 大夫だいぶ 敦盛あつもり
敦盛あつもりは、清盛きよもり舎弟しやてい 經盛つねもり末子ばつしなりしが、いちたにたゝかやぶれて、熊谷くがまへ次郎じらう 直実なをざねうたたるゝ。

敦盛あつもりは、了得さすが 平家へいけ さかんの うち成人ひとゝなれば、雲上うんじやうまじは而已のみにて、武道ぶだうには うすひとなりしが、管絃くがんげんみちには たけて、ことふへ名人めいじんなりしに、わづか じうゆう七歳しちさい一期いちごとして、このはやくするも、ゆへあるかな。

敦盛あつもり少年せうねんきこへはあれど、つねこゑにごりて ことばたらざるごとくいひかね、かつ困眠ねむりたるときくちをとがらして いねしといへり。これ 夭死わかじにす。第一だいゝちみおどころなりといへり。


玉織姫たまをりひめ
ひめ敦盛あつもりつまにして、すでこのとき 懐妊くわいにんして有けるが、良人つまあとしたひて、城郭じやうかくいでしに、途中とちうにて 源氏げんじ軍兵ぐんびやうこれ生捕いけどらんとするゆへたちまち かみおろして かたちをかへ ひそみたるうちに、一門いちもん みな ほろびけると きゝて、朝暮てうぼ 悲哀ひあいしづみけるが、其後そのゝち つきみち男子なんしうみけり。

ゆへ 生田いくたがはほとりに わび住居ずまゐして、この 稚児ちご三才みつまで はぐゝみけるに、いまこれまでなりと、黒谷くろだに上人しやうにん稚児ちごたくしおきて、その自害じがいしてす。これ ていとやいはん とやいはん。

その こゝろうつくしきこと、じつをんなかゞみなり。そのうへ閉月へいげつ羞花しうくわよそほひありし。これをや、まこと美人びじんともいふならん。

※ 「閉月へいげつ羞花しうくわ」は、月が雲の間に隠れ、花が恥らってしぼむの意。沈魚ちんぎょ落雁らくがん閉月へいげつ羞花しゅうか



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