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大和名所図会 巻一

この note では『大和名所図会』の挿絵ページを翻刻します。本文ページは大正時代の活字版があるのでそちらを参照してみてくださいね。👀 → 国立国会図書館デジタルコレクション『大日本名所図会 第1輯 第3編』(大正8年)

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 7/45

公事根源曰
今の國栖乃奏とて、歌をうたひ、笛を吹ならすは、吉野より年の始に参りたるといふ心也、云云。

江家次第曰
國栖歌笛於 𣴎明門外 奏之

※ 「公事くじ根源こんげん」は、室町中期の有職ゆうそく故実こじつ書。
※ 「國栖乃奏」は、国栖くずそう。古代部族「国栖くず」の歌舞で、応神天皇が吉野宮へ行幸したときに、国栖の人が来朝し、醴酒こざけを献じて歌を歌ったと伝えられます。
※ 「江家こうけ次第しだい」は、平安時代後期に大江匡房まさふさによって編纂された有職故実書。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 8/45

新古今
春日のゝ わか紫のすり衣
  忍ぶのみだれ かぎりしられず
       在原業平朝臣

※ 「新古今」は、新古今和歌集。
※ 「春日の」は、春日野かすがの

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 12/45

春日野かすがの
春日野かすがのおほ鳥居とりゐよりひがし。春日かすがの社までをいふ。こゝを春日かすがと名づくる事は、神代のむかし、天照太神あまてらすおほんかみ邪心じやしんをく九千を 征討たいらげ、正心みなこゝろにかへるゆへ、万民もやすくなるを以て、天照太神あまてらすおほんかみこゝろ 清浄すが/\しく 和平やはらぎ まします事、はる長閑のどかなる 御こゝ地にて、春日かすがおんよろこび たまひ、その所のさとをも 春日かすがとなづけゝれ。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 9/45

たき坂 もみぢ
千里楓林炬樹深 無朝無暮有猿吟

※ 「たき坂」は、滝坂の道。
※ 「千里楓林炬樹深 無朝無暮有猿吟」は、とう其昌きしょう(明代末期の文人)の漢詩。「千里楓林煙雨深 無朝無暮有猿吟 停橈靜聽曲中意 好是雲山韶護音 … 」

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 11/45

後拾遺
白雪の またふる里の 春日野に
  いざうちわらひ 若菜摘みん  能宜

常夜燈

※ 「後拾遺」は、後拾遺ごしゅうい和歌集。
※ 「能宜」は、平安時代中期の貴族・歌人、大中臣 能宣おおなかとみのよしのぶ

いざうちわらひ 若菜摘みん
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 13/45

春日かすがやま 若宮わかみや
新薬師寺しんやくしじ
菊の香や ならには古き 佛達
           はせを

※ 「はせを」は、芭蕉ばしょう。松尾芭蕉。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 17/45

春日かすが若宮わかみや
春日かすが若宮わかみやは、天児あまのこ屋根やねみこ 天押雲命あまのをしくものみこと を祭ると、名法要めうほうようしうに見へたり(則河内國平岡明神の若宮は天神雲令也)。

ある 曰、吉田よしだ記録きろくには、瓊瓊杵尊ににぎのみことといふ。然れども、若宮神主、たゞ 一家の 秘説ひせつにして、他に しる事なし。春日社記、それ 若宮の 御鎮座ちんざは長保五年三月二三の御殿の間に現れたまひしを、時風五代の孫、中臣連なかとみのむらじ 是忠これたゞ、三の御殿にうつし、のりと を奉る。其後、百三十年を経て、長𣴎ちやうしよう四年四月廿七日、時風ときふう八世のそん祐房すけふさ べつに 神殿を 造営ざうゑいして、御鎮座し奉る。今の若宮大明神、是なり。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 14/45

春日かすが大社たいしや

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 15/45

続拾遺
見渡せば 春日の野べに 霞たち
  ひらくる花は さくら花かも
             人丸

三笠山みかさやま 水屋社みづやのやしろ

※ 「続拾遺」は、しよく拾遺しゅうい和歌集わかしゅう
※ 「人丸」は、柿本人麻呂かきのもとのひとまろ

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 21/45

水屋みづやの
大宮の北、三百歩の計にあり。澗水たにみづ 社頭しやとうめぐり、野田のだむらに入。祭神さいしん第一 素戔嗚尊すさのをのみこと、第二 稲田姫いなだひめ、第三 南海なんかい神女しんによ也。毎歳まいさい、四月五日に のうあり。水屋みづやののうといふ。

水屋みづや
やしろの北のほとりにあり。

かさやま
顕注けんちう密勘みつかん曰、春日山は、御笠みかさやまとて、ひき下りてちいさき山に、春日の社はおはします。春日山は惣名そうめうなり。三笠山はべつなり。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 18/45

春日祭は、大宮四所の御神事也。一年に両度にして、二月申日、十一月申日にあり。此 祭式さいしきは、仁明帝 嘉祥がしやう三年九月に、中臣なかとみ秀基ひでもと、はじめて奏聞を●て、其後 清和せいはてい 貞観ぢやうくわん 十一年十一月九日 庚申かうしんよりはじめて行れ給ふとかや。

弁乳母べんのめのと
一とせに ふたゝびまつる 三笠山
  さしてちとせの かけとこそみれ
             常陸

※ 「 春日祭かすがのまつり 」は、春日大社の例祭。昔は 二月と十一月の上申日(その月の最初の申の日)に行われていましたが、明治十九年(1886年)以後は年に一度、新暦の三月十三日に行われています。
※ 「大宮四所」は、春日大宮四社大明神。春日祭神四座。
※ 「仁明帝」は、仁明にんみょう 天皇。在位、天長十年(833年)二月二十八日から嘉祥三年(850年)三月十九日。
※ 「奏聞そうもん」は、 天子に奏上すること。
※ 「弁乳母べんのめのと集」は、三条天皇皇女禎子内親王の乳母、藤原明子の歌集。
※ 「ひととせにふたゝびまつる」は、一年に二度祭る という意味。
※ 「常陸」は、奈良時代の歌人、高橋虫麻呂たかはしのむしまろのことと思われます。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 19/45

霜月廿六日 御祭おんまつり 掛鳥かけとり

※ 「掛鳥かけとり」は、春日若宮祭に社前に掛け供える鳥獣のこと。

狸 兎 雉子
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 22/45

春日若宮 御祭おんまつり
仕丁赤衣数人 柏手公人 戸上公人

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 25/45

新勅撰
かすが山 社の下道 ふみ分て
   いく度なれぬ さをしかの聲
           後京極摂政

春日のになひ茶屋ちややは、むかしならの都の御時、元旦に内裏へ奉りし餘風よふうの今も のこれるものならんか。

※ 「新勅撰」は、しん勅撰ちょくせん 和歌集わかしゅうのこと。
※ 「京極きょうごく摂政せっしょう」は、九条くじょう良経よしつねのこと。
※ 「になひ茶屋ちやや」は、にない茶屋ぢゃや。茶釜・茶器・水桶などの茶道具一式を天秤棒にかつぎ歩き、社寺境内や路傍で茶を立てて売る人のこと。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 27/45

東大寺とうだいじ南大門なんだいもん
鎮守ちんじゆ八幡宮はちまんぐう
東南院 御宮

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 30/45

東大寺とうだいじ
春日社の北に隣る。一名、だい華嚴けごん寺、又、恒説こうせつ華嚴寺けごんじ(佛法傳通記)、又、國分寺こくぶんじ、又、金光明四天王護國ごこく之寺(続日本紀)ともいふ。

それ當寺は、聖武しやうむ天皇の 御願ごぐわんにして、天平てんぴやう 勝寶しやうほう 年中に 成就じやうじゆせり。宗旨は八宗兼学けんがくにして、三ろん華嚴けごんを以て本とす。麝香じやかう石竹せきちくねぶり、鸚鵡あふむ金桃きんとうつひばむの 給孤きうこをんともいひつべし。

南大門

南大なんだい
がくは 弘法大師の筆なり。いにしへ東南院寺務じむ一代の御門主、此寺は八宗兼学といへども、三論華嚴けごんことにせり。いかでか  華嚴けごんにかぎるべからずとて、西南両門の額をおろされしと也。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 29/45
わかくさ山 八幡宮 若宮

鎮守ちんじゆ八幡宮
鎮守八幡宮は、天平勝宝元年十二月に梨原宮に新宮を作り、神宮とし、又、大佛殿のほとりにうつし、其より鎌倉最明寺殿の命によつて、三月堂の南に遷し奉る。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 28/45

二月にぐはつだう 若狭わかさの
大佛殿

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 35/45
二月堂 わかさ井

二月堂にぐはつだう
二月堂にぐはつだうは、羂索院けんざくいんと号す。天平勝宝四年、良弁りやうべん 僧正の 御弟子 實忠じつちう和尚 勅定によりて造営ざうゑいあり。本尊観世音は、摂州せつしう難波浦なにはのうらより 十一面大悲の像、みたけ 七寸の 銅像どうざうにして あたゝかなる事、人の はだへ の如し。實忠じつちう、是を 感得かんとくし、當院に安置あんちす。それより毎年二月朔日より十四日まで法會ほうゑあり。十五日には、後堂こうだうに於て 涅槃ねはんあり。

若狭わかさの
若狭わかさの井は、二月堂の閼伽水あかのみづなり。開基かいき 實忠じつちう和尚、二月堂の おこなひの 初夜しよやに、諸神しよしん名帳めいちやうよみ供養くようせらるゝに、若狭わかさの遠敷をにう明神、此 にまし/\て ねがはくば、われ閼伽あかを奉らんと和尚に のたまふ下より、黒白こくびやく 二羽 岩中がんちうより とびる。その あとより 甘泉かんせんわきながれたり。一とせ ひでり して 閼伽あか水なし。衆僧しゆそう、井のほとりに あつまり、若狭わかさのかたに むかひて いのられしかば、見るがうちみづ 盈滿ようまん せり。毎歳二月十二日の夜なり。此 時、若狭わかさ 遠敷をにう神前しんぜん、みたらし川の流れ たへをとなし。かるがゆゑに、音無をとなし川とぞ 名づけき。

大仏殿

大佛殿だいぶつでん
朝野てうや群載ぐんさい曰、殿でんの高さ 十五丈六尺、東西二十九丈、南北十七丈、基砌きせいの高さ 七尺、東西三十二丈七尺、南北二十丈六尺、内陣ないぢんの柱 九十六本、天坪 三千百二十がい廻廊くわいろうはしら 五百八十本、東西八十五間、南北百間。これは㝡初さいしよ、天平年中の 造建ざうこんの丈間なり。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 29/45

東大寺 景清門かげきよもん
暑き日や 門にはだかる 大男
            李夕

※ 「景清門かげきよもん」は、転害てがいもんのこと

左下に「景清門」が見えます。
中央に「宝蔵」とある建物は正倉院正倉です。
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 42/45

輾磑てがいもん
輾磑てがいもんは、東大寺とうだいじ西北の 惣門そうもんをいふ。ぞくに、景清かげきよもんともいふ。東鑑あづまかゞみ に曰、建久けんきう六年三月、大佛供養くようの日、悪七あくしち兵衛景清かげきよ、此門にかくれ、将軍しやうぐん 頼朝よりともこううかゞふ。秩父ちちぶの重忠しげたゞ、かれが 異相いさうさつし、景清かげきよとらへしむ。

これ俗説ぞくせつ妄談もうだんなり。景清かげきよは、建久けんきう六年三月、鎌倉かまくら 土牢つちのろう に於てす。

供養くようの日、衆徒しゆと 梶原かぢはら景時かげときたがい狼藉らうぜきことばはつす。将軍しやうぐん嚴命げんめいにより、小山朝光ともみつ 口辨こうべんを以て、衆徒しゆとはづか しめ、靜謐せいひつをなさしむ。和田わだ義盛よしもり梶原かぢはら景時かげとき武者むしや ところ にして 隨兵ずいひやうひき門ゝもん/\をかたむ。ぞく景時かげときあやまつ景清かげきよしやうじけり。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 31/45

大佛殿だいぶつでんせん 金銅かな燈爐圖とうろうのづ
そう陳和ちんなけいが、ほうかくたる かな燈爐とうろなり。四面しめんには佛像ぶつざう、四面にはけものかたちあり。めい銅柱どうちうにあり。別記に書す。

柱に銘あり。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 32/45

滑稽談曰
万菜は南都の西南 相去る事 三里詃に
窪田、箸尾の両村 ありしより出る故に
窪田、箸尾の二流あり

万菜まんさい
智恵なき顔と 見へてよし  湘夕

※ 「万菜」は、大和やまと万歳まんざいのこと。奈良県きた葛城郡かつらぎぐんの 広瀬、窪田くぼた箸尾はしお、小林などの村落でで発達した千秋せんず万歳まんざい。服装は侍烏帽子えぼし素襖すおう姿で、太夫たゆうは扇、才蔵は鼓を持ちます。
※ 「湘夕」は、秋里あきさと籬島りとう。湘夕は字。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 34/45

良辨りやうべん 僧正
初めの名は 今鷲こんじゆ 仙人せんにん といふ。
執金剛神しゆこんがうしざうを本尊として、華厳けごん経 を 読誦どくじゆす。かたわら なる石に上りて、王城へ向ひつゝ 金輪こんりん 聖王しやうわう  天長地久と唱ふ。其 こへはるか叡聞ゑいぶんに達し、紫雲しうん 空に そびへ皇居を照す。天皇、あやしみ 給ひかしこへ 勅使を つかはされ、今鷲こんじゆ 仙人せんにんをぞめし給ひける。

※ 「良辨りやうべん」は、良弁りょうべん。奈良時代の華厳宗の僧。通称、金鐘こんしゅ行者。大仏造像にあたり、佐伯宿禰さえきのすくね今毛人いまえみし行基ぎょうきなどとともに聖武天皇を助け、天平勝宝四年(752年)の大仏だいぶつ開眼かいげん供養会くようえのあと、初代東大寺別当に任ぜられました。
※ 「執金剛神しゆこんがうし」は、執金剛しゅうこんごうじん。手に金剛杵こんごうしょを持ち仏法を護る夜叉神。
※ 「読誦どくじゆ」は、声を出して経文をよむこと。仏語。「読」は目で見てよむこと、「誦」はそらで唱えること。
※ 「金輪こんりん 聖王しやうわう」は、転輪王(古代インドの伝説上の理想の帝王)のひとつで、金の輪宝を感得し、須弥山しゅみせんの四州を統治する王のこと。転輪王てんりんおう
※ 「天長地久」は、天地が永久に不変であるように、物事がいつまでも変わらずに続くこと。
※ 「叡聞ゑいぶん」は、天子がお聞きになること。
※ 「紫雲しうん」は、念仏行者が臨終のとき、仏が乗って来迎らいごうする雲のこと。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 36/45

続拾遺
手向山 ぬさはむかしに 成ぬとも
なを散残れ 峯のもみぢ葉
        中原師光朝臣

※ 「中原なかはら師光もろみつ」は、鎌倉時代の官人、歌人。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 38/45

業平なりひら朝臣あそん、二条の きさき をぬすみて、たいら の 京よりならの故京へし奉りける程に、御せうと、基経大臣 国経大納言、此事をきゝて、とりかへし奉らんと、多くの人ゝを出し給ひける。
されば、いせ物語にはむさし野といひ、古今には春日野の中にあるによりて、かすが野とはなをし入られけるとなり。

※ 「業平朝臣」は、在原業平ありわらのなりひらのこと。平安時代の貴族、歌人(六歌仙のひとり)。
※ 「二条の后」は、清和天皇の女御で、のちに皇太后となった二条后(藤原高子)のこと。
※ 「たいらの京」は、平安京のこと。
※ 「故京」は、古い都のこと。旧都。
※ 「し」は、ここでは連れだって行くという意味。
※ 「せうと」は、兄人せうと。藤原基経は二条后の兄。
※ 「国経大納言」は、藤原国経ふじわらのくにつねのこと。平安時代前期の公卿、歌人。
※ 「いせ物語」は、伊勢物語。平安時代に作られた歌物語。
※ 「古今」は、古今和歌集。平安時代に編纂された歌集。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 37/45

手向山たむけやま
俗に、八幡山といふ。此山、大納言兼武蔵守良家安世卿の古墳あり。これを武蔵塚といふ。かの卿を神に崇めしと也。

武蔵野むさしの
武蔵野は、若草山の麓、松生茂りたる所也。武蔵塚あればかくいふとぞ。
伊勢物語
 むさし野は けふはなやきそ 若草の
   つまもこもれり 我もこもれり

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 39/45

新続古
神さびて いく代を 寿きぬ
  古へと成にしならの 山のはの月
           藤原光俊朝臣

※ 「神さびて」は、古色を帯びておごそかな様子。神さびる。
※ 「藤原光俊」は、鎌倉時代の歌人。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 41/45

続千載
衣うつ 砧の音も 高円の山の
 木葉に 秋風ぞふく
        光明峯寺入道

氷室ひむろ
いにしへの ならの都の 牡丹かな  其角

※ 「続千載」は、しょく千載せんざい和歌集。
※ 「光明こうみょう峯寺ぶじ入道」は、鎌倉時代前期の公卿、九条道家のこと。
※ 「其角」は、江戸時代前期の俳諧師、宝井たからい其角きかく

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図図会1』 43/45

風雅
いにしへの 野守のかゞみ 跡たへて
   とぶひはよはの 蛍也けり
            寂蓮法師

あげ雲雀 飛火の野守 出て見よ
            雲裡

※「寂蓮法師」は、平安時代末期から鎌倉時代前期の歌人。俗名 藤原定長。
※ 「あげ雲雀」は、雲雀ひばり
※ 「雲裡」は、江戸時代中期の俳人、渡辺わたなべ雲裡坊うんりぼう
※ 「飛火」は、飛火野とびひののこと。



筆者注 ●は解読できなかった文字を意味しています。新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖