【人相学】『武者鑑』松浦佐用姫/大伴狭手彦/横佩右大臣豊成/中将姫 3 mominaina 2024年4月12日 17:24 出典:国立国会図書館デジタルコレクション『武者鑑 一名人相合 南伝二』松浦まつら佐用さよ姫ひめ佐用さよ姫ひめは、播州ばんしう 佐用さよ郡ごほり 松浦まつら氏うぢの 女むすめにして、大伴おほとも狭手彦さでひこの妾せうなり。夫おつと、新羅しんらを伐うたんと 纜ともづな をとく時、愛別あいべつを 哀かなしんで、領巾ひれをぬぎて是これを 打振うちふりまねけども、順風じゆんぷうに 真帆まほ上て、其かげ 遥はるかになるにぞ、大に 悲かなしみ立ながら、恋こがれ死して石と化けす。是これより、巾振山ふれふるやまの名なを得えて、望夫ぼうふ石せき、今猶いまなほ存そんず。佐用さよ姫ひめは、額ひたいの生はえさがり濃こく、其その内うちに 旋毛つむじありて、眉まゆと眉との間に 竪筋たてすぢ一二本あり。是なん 恋情れんじやう厚あちつき 相さうにして、夫をつとを 慕したふ気きこりて石となるは、和漢わかん 例ためしすくなく一竒きといふべし。※ 「領巾ひれ」は、古代の女性が肩にかけて左右に垂らした服飾。下図の白い布の部分(領巾ヒレ也)。出典:国立国会図書館デジタルコレクション『遊古世 巻1』大伴おおとも狭手彦のさでひこ狭手彦さでひこは、大伴おほともの大連おほむらじ 金村かねむらの 二男じなんなり。宣化せんくわ帝ていの御時とき、新羅しらぎより 任那国みまなこくを襲おそふに依よりて、是これを 救すくはんと、狭手さで彦ひこ 其その軍将ぐんしやうに 撰えらまれて 発向はつこうなす。其その妾せう 別わかれを 哀かなしんで、是これを止とゞむといへど、一婦いつぷの為ために 君名くんめいを 辱はづかしめずと、彼かの国くにへ 渡わたりて 大おほいに功こうあり。智ち勇ゆう義ぎを兼かねし 良将りやうしやう 也。狭手さで彦ひこ 幼いとけとき、或ある相者そうしや云いふ、此この稚子ちご 面かほ容かたち長ながく、額ひたい高たかく、眉まゆ 頭尾あとさき 細ほそく、中間なかごろ太ふとく、毛色けだちよく 一いち文字もんじにして、眼め大きく、唇くちびる 薄うすく、紅くれなゐにしてその 艶つや光ひかりあり。手足てあしの指ゆび 細ほそ圓まろく、掌ての内うち 柔やはらかなり。これ 後年こうねん 名まを発あぐる相さうありといへり。空むべなるかな、遠とほく 異国いこく迄までに 其その名なを揚しとは 當あたれるかな。横佩よこはぎ 右大臣うだいじん 豊成とよなり藤原ふぢはらの豊成とよなりは、聖武せいむ天皇てんわう 天平てんぺい廿ニ年に 右う大臣だいじんに任にんず。此この卿けう、面体めんてい 常つねに換かはらずといへど、鼻はなの根ねもとに 横紋よこすじありて、眼めの中へ入込こんであり。是これ、無実むじつの 災難さいなんにあふの 相さうなりしに、孝謙かうけん帝ていの宝字ほうじ元年、奈良なら麿まろ・仲麿なかまろのことによりて、罪つみなくして 筑紫つくしへ流ながさるゝといへど、其後七ヶ年を經へて、赦免しやめんを蒙かうむる。その頃ころは かの横紋よこすじは消きへて、跡あとなしとかや。されば、不時ふじ大難だいなんの相さうありとも 謹恐きんきやうふかきときは、悪相あくさう 却かえつて善相ぜんさうとなるといへり。中将姫ちうぜうひめ姫ひめは 豊成とよなりの 御娘むすめなりしが、三才にて母はゝに後おくれ、成長せいてうにしたがつて 美麗びれいいふばかりなし。依よりて 帝みかどより 中将ちうぜうの位くらゐを給ふ。継母けいぼ、是これを妬ねたみ、讒ざんを 構かまへて、雲雀ひばり山やまにすつるに、姫ひめは 剃髪ていはつして 善心ぜんしん尼にといひ、母はゝの後世ごせを 吊とむらはんと、蓮はすの 曼荼羅まんだらを織おるに、佛ほとけの助たすけありて、其その大願だいぐわんを 果はたして、宝亀ほうき六年四月十七日、二十九歳にて 往生わうじやうを遂とげ給ふ。その頭かしら 圓まろく、顛頂いたゞき 平たひらにして、耳みゝ至いたつて 長ながく細ほそく、鯨くじらの肉にくのごとく青白あをりそかりしといへり。是これ 不ふ仕合しあはせの相さうなれど、出家しゆつけすれば 尊たうとき相さうなりしとかや。※ 「讒ざん」は、そしる、よこしまの意。『武者鑑』の人物一覧はこちら → 【人相学】『武者鑑』人物まとめ 👀筆者注 ●は解読できなかった文字を意味しています。新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖 ダウンロード copy #古文 #古文書 #人相 #人相学 #中将姫 #武者鑑 #松浦佐用姫 #藤原豊成 #大伴狭手彦 3