ヴァサラ幕間記3
戦死した兵士と名もない女性
少女はどの子どもより喧嘩が強かった。年下の子を庇い、大人相手でも間違ったことは正した。将来はヴァサラ軍だねと皆に言われるのが嬉しくて、それなら字が読めないと困るだろうと勉強し、独学で読み書きもできるようになった。
しかし名もない少女にとって軍への壁は高すぎた。少女は成長し、名もない女性になった。名もない女性は兵士である青年と出会い、結婚を誓い合った。
青年が戦死した時、女性はその報告を淡々と受け取った。選んだ相手は兵士なのだから、こういう死に方は覚悟していた。ただ、立派な最後だっただろうかと、それだけは気になった。
女性は既に青年の子を身籠っていた。
淡々と過ぎる変わらぬ時間。朝起きて家事をし、小さな畑を耕し、夜は早く寝る。お腹が大きくなった女性は、動く時何かと不便で仕方ない。
「ちょっと。お皿ぐらい用意してよ」
つい言ってしまった言葉が誰もいない空気に溶けて消えた時、
“ああ、あの人はいないんだ。〟
ガランとした部屋で、全身に浴びるようにそう感じた。
女性は家中を探す。2人で使おうと買った食器、置いてある着替え。でもあの人はいない。一緒に種蒔きをした庭の一隅、育つのを待っていた果物の木。でもあの人はいない。そこにもここにもあの人の痕跡がある中で、どうして私は忘れていられたのだろう。
座り込んだ床の上で女性は声を上げて泣いた。もう取り戻せない、この手から壊れ落ちてしまった幸せを思った。彼に会いたくて会いたくて仕方なかった。
私だって武器をとって戦いたかった。国を人々を彼を守りたかった。できなかったのは私の努力不足だろうか、弱者に厳しい世の中のせいだろうか。奪われ傷つけられた痛みを、怒りを、悲しみを。何もできなかった私は、私たちは、一体どこにぶつければいいのだろう。
みんな自分ができる所でヒーローになるしかない。
泣き疲れた頃、耳元でふっと囁いたのは、亡くなったあの人だろうか。
女性は思った。
この子を産んで育てることは私にしかできない。私はこの子を産んで育てることで、ヒーローになるしかないんだ。
それにしても、と、青年を失ってから初めて、女性はちょっと笑った。
あの人も、よく、大将軍のヴァサラ隊長に子どもの名付けなんか頼めたものね。
そんなことをあっさりできるような豪胆さがあったなと思い、手を振って出て行った姿を久しぶりに思い出した。
彼が私にくれた一番のプレゼントはプロポーズの言葉で、二番目は生まれて来る子どもだ。彼の希望だった隊長が、我が子のためにくれた名前を、彼も良い名前だと思ったはずだ。人に寄り添える優しさを持つ子に育つよう願いながら、私は子どもへ、この名前を渡そう。
これからも、何かある度に、きっと彼が恋しくて仕方なくなるだろう。でも一緒に見た景色の中に確かに彼は息づいていて、私はその世界で生きていける。
そしていつか会える日が来たなら、「立派な子どもに育ったよ」と、今度は私が彼にプレゼントをあげるのだ。だからその時は、ヒーローとして頑張った私を、「よく頑張ったね」と褒めて、ちょっとだけ甘えさせてほしいと思う。
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