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缶ビールとチョコレート。

「スタート地点と現在地が、異世界過ぎて動揺する。あの時、子どもを産もうって思えた動機は、目の前、背中の後ろ、どこにもないよ。たとえ、幼な子が囲炉裏のフチを歩いて落ちそうになっても差し伸べてくれる手が数多あったのに。今はない、子どもさえいない。シングルマザーにさえ、なり損ねた。シフトをやりくりしながら、影で同じ名字のシングルファザーのお手伝いをする情け無い女だけがここに残っている。」

午後十時三十三分。
チヨの家。いつ来てもきれいに整っている。もともと子ども同士が仲の良いわゆるママ友。今日はわたしが一人でやってきたので、チヨの子どもたちはがっかりしていた。

子どもたちが寝静まり、お酒を飲まないチヨはオーガニックのチョコレートをつまみ、わたしは缶ビールを飲んだ。

「あんたは、離婚して、妻の役得は捨て、不利益な役割だけ続けている。これまでは、夫の役割に不足があれば『夫は分かってくれない』と言い、プラスがあれば『うちの夫はイクメンで最高』と言い、どちらの場合も安定した土台から世界に向かって偉そうに叫ぶことができた。今はさ、これまでのシャドーワークが、本当にシャドーワーク。あんたが結局子どものそばから離れられず、自分の仕事のシフトをやりくりして、夫が出張に行く手助けをしているなんてこと、誰も想像していない。時給の仕事を休んで、彼が補填をしてくれるわけ?」

チヨは、3人の小さな子どもを育てる母で専業主婦。女の理解者は女であるようで、敵でもある。子を持つ女と持たない女の間に流れる川はとてつもなく深い。チヨは、子どもや夫、家族をとてつもなく大切にしていながら、服づくりをしてネット販売をしたり、時折、子どもを夫に任せて遠くまで興味ある展覧会に出掛けるなどし、自分のことも家族と同じように大切にしている。そんな彼女が、わたしと変わらず友人として向き合い続けてくれていることが、嬉しい。

チヨは、ルイボスティーをいれるためにキッチンに移動しながら続けた。

「今は、彼にとって必要だからあんたとの関係性が続いてるだけで、彼に新しい奥さんが出来たら、あんたは子守を頼まれることもないし、子どもたちも連れて今の土地を離れてしまうよ。そうしたら、あんたに一体、何が残るの。社会的なポジションはすべて自分で手放したんだよ。『自由な自分の人生を取り戻す』と豪語して、親権まで手放したなら、中途半端な情けは捨てて、世界のどこへでも旅立ち、とことん裸一貫になった自分と向き合いなさいよ。逃げないで。」

時が流れると共に、変化して溢れる感情に、その都度飲み込まれる。波は小刻みにやってくるし、大きい波も何度も訪れる。

「あのさ、おかんが幸せじゃないと。あんたは母親。子どもら見てたらわかるよ、あんたのこと大好きやんか。」

チヨがわたしの両肩をつかんで、真正面から語りかけた。涙が落ちそうなのを、缶ビールの飲み口の鋭利な部分を指でいじって誤魔化した。

「こんなん産んだだけやで、何も出来とらん。」

「…あんた自身は、どうなん?子どもらのこと、大好きなんやろ。」

「当たり前やんか…」

パジャマ姿のチヨの右肩に顔を突っ伏して、泣いた。チヨの子どもたちが起きないように声を殺しながら。

自分が産んだ子どもであったって、自分のものではない。自分を愛することと、人を、我が子を愛することを両立させる方法を教えてください。チヨがわたしの代わりにわたしの人生を歩んでくれたら、わたしも、子どもも幸せだっただろうか、と想像した。

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