一つの時代の終わり〜1.13GHC拳王VS潮崎豪

プロレスにおいて「〇〇越え」という言葉には大きな意味があります。特に世代交代という意味では「直接対決で下の世代が上の世代に勝つこと」。それとても重要です。ただし「直接対決で勝利した=その相手を上回った」と言い切れないのもまたプロレスならではのこと。ファンの支持であったり存在感や試合内容。そうした部分を含めて「〇〇越え」を果たすには?勝利だけでは足りません。

その意味で1.13の拳王潮崎戦はどうだったのか?この試合を世代交代として捉えるかどうかは微妙なところですが。それでも「今のノアの象徴VS過去のノアの象徴」という図式はあったわけで、この試合には世代闘争の意味もあったと思います。

ぼくの結論としては「勝敗だけではなく全ての面で拳王が潮崎を越えた」という感想です。

潮崎が得意とする「相手の攻撃を全て受けきる」「ハードな打撃と技で相手に返す」という土俵に立った上で、そのスケール感を上回っての完勝。更に彼を後押しした大拳王コール。あくまで配信視聴のぼくの感覚ですが、会場の声援は拳王への支持が高かったように感じました。試合内容、勝敗、そして観客の支持。それら全てで拳王は潮崎を越えていました。

更に「潮崎から奪ったI am noah」を奪った直後に彼に突き返すこと。もし潮崎がファンの求心力を高く持っていたら?その拳王の言動に対して「なんだその屈辱的な扱いは!」という声が多く上がったでしょう。しかし会場の空気やSNSの空気を見ても。そうした反応は少なかったように思えます。

少し穿った視点をとると、これは拳王による市場調査でもあったかもしれません。件の言葉に反論が少なければ?ノアの象徴の一つであった潮崎よりも己の支持が高ければ?それは即ち拳王がノアを掌握したことを意味します。もちろん「表に出ている声=ファンの意見の総意」だとは言えません。しかしそれを無視することもまた間違っています。やはり拳王による潮崎越えは完遂されたと言えるでしょう。

潮崎に思い入れを持っていたぼく個人としても、彼のこうした姿を見ることはかなり切なかったです。潮崎がタイトルマッチで自分の試合に出来なかったこと。コンディション的にも厳しかったこと。

戦前は「コンディションが整うまで待ったほうが…」という気持ちもありましたが、もしかすると「それを待つことも厳しい」という状況だったのやもしれません。

フィジカル的に絶頂期だった2013年頃(みんなで入ろう全日本プロレスTV)。

コロナ禍という最大の敵と立ち向かった2020年。


ぼくはこうした潮崎時代がいつかまた訪れることをずっと待っていました。しかしそれはもう難しいことなのかもしれません。もちろんN-1やタイトルマッチなどで短期的に結果を出すことは今後もあるでしょう。いやあってほしい。しかし「時代を創る」ということ。それは…。

潮崎は卓越した試合内容に全振りすることで多くのファンの支持を集めました。彼はある意味でキャラクター性を強く打ち出すことを求められる現代プロレスにおいては希少な(厳しく言えば古い)選手です。であれば緩やかにマイナーチェンジすることで、新たな魅力を発揮することもできるかもそれません。それができていればまた違った状況だったかもしれません。

でもそれが悪なのか?ぼくはそうは思いません。これは1.2有明のメインにも近い部分ですが、「もうできないとファンに見せること」は大事なことです。それを見せた上でそれでも同じ路線で抗うか?それとも別の道を歩むのか?彼に多大な影響を与えた二人の選手は、様々な理由でそれをファンの前に見せることはできませんでした。一人は衰えの兆候が見えた時点でこの世を去り。一人は病魔という衰えと別の要素があり。潮崎が彼らの意思を受け継ぐ者だからこそ。彼らが見せられなかった「衰えとの戦い」を見せてくれている。ぼくは勝手にそう思っています。

ノアの時代が変わった節目に潮崎が今後どうなるのか?どう闘うのか?時代でもノアでもなく「一人の潮崎豪」としての闘い。それをぼくは今後も見届けたいです。

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