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【介護日記】透明人間でいたかった20代

ふと部屋を見渡すと、そこかしこに人のやさしさに囲まれていきていることに気づく。

ラベンダーの香りのするネイルオイル。
心配そうに私の退職を見送ってくれた上司から。

紅葉の描かれた葉書。
体調を気遣う遠方の友人から。

自分では選ばないピンク色の水筒。
母と私がゆっくりした時間を過ごせるようにと、ずっと見守ってきた恩師から。

ほろ苦いカカオがかおるチョコレート。
突然の決断をした私に「相談してほしかった」とさみしそうにつぶやいた兄から。

肩の部分が色あせてきた紺色のコート。
高校生の頃、私に似合うといって嬉しそうに買ってきた母から。

あれもこれも、誰かが私を想ってくれた軌跡。


私は人の好意に慣れていない。やさしい気持ちを向けられると、体も心もこわばってしまう。咄嗟に言葉が出てこず、あうあうとあからさまに動揺し、相手を戸惑わせる。

優しさを向けられてこなかった、といえば、それは違う。気づかないことも含め、私はきっとたくさんのあたたかな気持ちを受けてきた。それでも、戸惑うのは、自分が好意を受けるに値しない存在だと思っているからだ。非常に面倒な奴だ。

笑顔を向けられることも、好きだと言われることも、ありがとうと言われることも、とにかく居心地が悪い。ほっておいてくれ、とさえ思う。

今まではそれでよかった。

でも、母が認知症になり、自分の力だけではどうしようもなくなった今、人のやさしさに、ぎこちなくだが、やんわりと笑って受け入れられるようになった。人のやさしさを拒絶していた自分だが、今は、自分と母に向けられるやさしさがとてつもなく有り難く感じる。

母の存在を私以外の誰かが認識し、肯定してくれる。

これがどんなに尊く、そばにいる私も励ましてくれることか。

これまで家族や友人、多くの人に惜しみない愛情を示してきた母が受けるべきやさしさを、自称透明人間志望の私が遮断してはならない。

母の代わりに「ありがとうございます」と言うことで、私自身にもそのやさしさとありがとうの言葉が沁み入り、消えかかっていた輪郭がくっきりと、私の存在を浮き彫りにしてくる。


透明人間には、当面、なれないなあ。



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