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曾祖父の戦争体験を話したい~沖縄戦~

※この話には沖縄戦から生きて帰って来られた方の話も含まれています。
なので実体験です。創作ではありません。

私の曾祖父(明治末期生まれ)は東北の出身ですが、沖縄戦で亡くなりました。当時は全国から召集されていたのでしょう。
私の実母や祖母の話を聞く限り、実業家だったのでしょうか、当時は裕福だったみたいです。戦争がなければ祖母は女学校へ通えるとのことでした。
曾祖父の年代でバイクを所有しているなんて、余程お金がない限り無理でしょう。
あ、そうです。曾祖父はバイクに乗っていました。
※Hondaのバイク製造の始まりは昭和21年らしく、終戦が昭和20年(1945年)です。沖縄戦はそれ以前で、当時の日本は「陸王(ハーレーダビットソンのエンジン使用)」など、国内でエンジンを作ることなんてできない技術レベルの低さでした。

どれくらいバイクが高級品かと言うと、戦後実父を亡くした祖母曰く「医者くらいしかバイクは買ってもらえなかった」そうです。ちょっと今の感覚だと分かりにくいですね。

さて、曾祖父の話に戻ります。
上記の通り、沖縄戦は非常に悲しいお話も多い中、全員が全員亡くなったわけではありません。
曾祖父の亡くなる当日もそうです。その日、曾祖父は本来なら生きることのできる立場でした。
偉い立場ではありません。詳細は分かりませんが、山に潜んでいたのでしょうか、それでも毎日「水汲み当番」なるものがあったようです。その当番ではなかったというだけです。

彼らは、その最中でも家族の話をしていたようです。写真を持っている人もいたようです。曾祖父はよく娘(私の祖母)の話をしていたようです。
きっと、会える日を楽しみにしていたのでしょう。

残念ながら、その日は来ませんでした。
水汲み当番でもないその日、明らかに「ヤバかった」のです。おそらく米軍でしょうかね、いたのでしょう。
でも、誰かがいかないといけない、それが一戦交えることになったとしても。
嫌ですよ。当番の方にしてみれば。行けば自分が死ぬのですから。
拒んだのでしょう、だから、私の曾祖父は代わりに行きました。
そして、案の定、銃で撃たれて亡くなりました。

沖縄で起きたこと、そして東北にいる実娘の祖母。
遺骨もらったそうです。けど、それは本当に実父のものだったのでしょうか。私の実母伝えですが、言ってました、「どこの人の骨かもわからないのに、渡された」と。。
そうなのでしょう。仕方がありませんよね、、遠方で亡くなって、きっと多数の亡骸と共に燃やされたのでしょうか、まとめて持ってきて、とりあえず一部の誰だかわからない骨を家族に「あなたの父親です」と渡したのでしょう。
悲しいです。でも、そういう時代だったのでしょう。

私は、この話を聞けて本当に良かったと思っています。
複雑です。上記のことがなければ私は存在しませんからね 汗
曾祖父は色んな思いの中で亡くなったのだと思います。

人生いろいろありますが、忘れてはならないエピソードだと思っています。

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