『全力投球―武平半生記―』(第四話)
江戸川乱歩が小酒井不木の事を終生「先生」と呼んでいた、と岡戸武平は書いていますが、岡戸自身にとっても、小酒井不木は「先生」でした。
『闘病術』の「著者」は先に述べた通り、厳密に言うと岡戸武平ですが、小酒井不木が最後の最後まで「闘病術」の実践者であった事は間違いありません。そんな小酒井不木の生き方を身近でずっと眺めていた岡戸にとって、小酒井不木は確かに「先生」だったのでしょう。岡戸の書いた追悼文の中に、次のようなものがあります。
『闘病術』の愛読者が先生の訃を知つたならばどんなに意気沮喪するか知れないと思ふ。ある人には先生の死は『百日の説法へ一つ』の感を抱かせるかも知れない。『あんな強がりをいつてゐても結局駄目か』そんな風に頭下しに考へる人があるかも知れない。
しかし、先生の生活を目前に見てゐるものは、いかに氏が闘病的修養によつて、けふまでよく病気を征服して来られたか、といふことをよく知つてゐる。事実、あの鉄のやうな意志がなかつたならば、もう疾くに亡くなつてゐられたのではないだらうか。死の直前二分まへに荒川医師が『先生!』と呼ばれたら氏ははつきりと、うなづかれたさうである。それは実に常人のでき得る業ではない。
(中略)
『闘病術』の著者にして始めて、あれだけの偉業もでき、またあれだけの長命も得られたのである。吾病友よ、決して迷ふなかれ、である。
(「死を越えて」・「名古屋新聞」昭和4年4月2日夕刊)
代作者が自分であることを明かすことなく、『闘病術』の著者にして、という不木への敬意に溢れたフレーズが泣かすじゃないの、といった感じ。師弟関係に盲従してるとか、ある種の打算があるとか批判的に見る事もそれはもちろん可能ですが、ここは何より元結核患者の立場での率直な感想として、『闘病術』読者たちよ「闘病」の意義を今こそ忘れるな、先生の分まで元気に生きようぜ、と言いたかったのだろうと信じたい。
『全力投球』の内容からは離れますが、しばらく、岡戸武平とその周辺という感じで、小酒井不木追悼の動きを追いかけてみましょう。
(第五話に続く)
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