小酒井不木とカフェにまつわる雑記

『周縁のモダニズム モダン都市名古屋のコラージュ』
馬場伸彦著 人間社 1997年11月7日発行 定価2400円(税別)

 筆者は愛知淑徳短大の講師で、都市文化批評が専門とか。「モダン都市名古屋の肖像 島洋之助・小酒井不木」という一章があったので、読んでみた次第。

 島洋之助という人物は本書によれば、ルポルタージュなどで活躍していた人物ということだ。「島は、今でいう、サブカルチャーの担い手だったかもしれない。体験を通じた取材で書くことが、恐らく、彼の姿勢なのだろう。」と馬場氏。続いて不木登場。最初の一段落を引用しておく。

島洋之助のもつスピード感とコラージュ感こそ、まさしくモダニズム都市の表現だが、猟奇小説を得意とした作家・小酒井不木の手にかかると、途端に、陰湿で退廃的な都市へと名古屋のイメージは変わる。島よりも数年前の記述になるが、「昭和三年には、昭和三年らしい色彩がある筈だ」と断って書かれた『名古屋スケッチ』に、小酒井が当時の様子をこう紹介している。

 馬場氏は名古屋を舞台とした不木の小説「大雷雨夜の殺人」の一節も取り上げ、「不健全派と呼ばれ猟奇小説の嚆矢として知られる小酒井不木ならではの描写であるが、こうした妖しげな部分こそ、都市の魅力であろう。混沌として、何が起こるのか予想がつかない。そんな部分が都市の中に陰影をつくり、好奇心旺盛な人々の足を向かわせるのだ。」とまとめている。これは、島洋之助の「陽」と小酒井不木の「陰」、都市の持つ二つの貌を二人のメディア人を通して語っている、と理解出来るだろう。そしてこの二人が描いた都市の肖像の中から、馬場氏が分析の為に抽出したのが、「カフェー」であった。
 論の方は島や不木の作品を「都市文学として」読み、「時代の価値観」を浮上させる事の意味を説くものだ。結論が「島や小酒井の名古屋案内には、読者を過ぎ去った過去へと誘う不思議な魅力と生命力がある。」と、随分あっさりというか、当たり前過ぎるのがご愛敬。「カフェー」については、粋を重んじ、「サロン的なネットワーク」の上に成り立っていた「旧風俗」としての「遊廓」にはなかった、「瞬間」的な、サロン的ネットワークをもたない享楽空間と位置づけ、「大衆化とは、つまり、表層化、即物化と同じ意味なのかもしれない。」と述べている。

 さて、その「カフェー」である。小酒井不木が「カフェー」に抱いていた印象は実にあっさりしたものである。(「カフエーと女給」・『騒人』昭和2年10月号)
 そんな人が小説中で「カフェー」を語るとこんな文章になる。馬場氏が不木の「大雷雨夜の殺人」からひいて、「小酒井不木ならでは」といったのは、この文章である。

 最近名古屋では、カフエーの数が驚くほど増加しつゝある。
 カフエー!!
 これはモダン・ボーイが、慰安を求める最良の場所の一つであつた。緑や紅や黄のリキユールを、ペルシヤの湖の色を思はせるやうな、硝子製の酒盃に盛つて、エスクラピウスの殿堂に参籠する病者が、神の入来に額づくときのやうな身振りで啜る異様の味は、軽度の強迫観念と、強度の乱視を持つた神経衰弱者としてのモダン・ボーイのみが知る法悦の世界であつた。
 新時代といひ旧時代といふも、それは単に、神経の有する感受性の多寡によつて区別されるに過ぎないのであつて、いはゆるデカダンなるものは、神経の感受性が極度に達して、一種の麻痺に陥つた状態に外ならぬ。彼等デカダンたちは、いづれも瞬間的の刺激に生き、瞬間的の興奮に満足を感ずるのであつて、その瞬間的の刺激を与へ、瞬間的の興奮を起さしめるために作られたものが、これ等のカフエーなのである。


 文章に妙な堅苦しさと説明的な印象を感じるのは、結局、カフェといえば「カフェー・ルル」しか知らなくて、しかもそれほど興味も持っていない作者が想像で書いた文章に過ぎないからだろう。馬場氏には悪いが、この文章、不木らしい事は間違いないが、戦前の探偵小説を読み慣れた目には、全然「妖し」さを感じ取れない部類の文章である。都市のダークサイドに惹かれた作家の文章として例示するには、力不足ではなかろうか。勿論不木が都市の暗黒面を知らなかったという事ではない。不木は「旧風俗」に属する人間だから、カフェの魅力を描写するに適した人物ではなかった、というだけの事だ。
 
「旧風俗」で思い出した。そういえば「疑問の黒枠」にも、中村遊廓が登場する場面があった。この作品もメディアや都市・名古屋をめぐる文学として、「時代の価値観」を再評価すべき作品だろう。
(記 2002/7/9)

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