実話系「痴人の復讐」



 先日暇なので『治療及処方』なんて雑誌を眺めていたら、こんな記事に出くわした。

次に実験眼科雜誌に出でたる某氏の例なるが、「トラホーム」手術に際し前と同様に誤て二%アトロピン水半筒を注射したり、直に発見し乱切圧搾数十回、液の排除に勉めたりしも十五分後より中毒症状現はれ、百方処置の結果漸く恢復を得たりと云ふ。 (「眼科的処置の過誤に由る二三の失態」医学博士小口忠太・大正9年11月号)

 この例はソフトな部類で、バラエティに富んだ薬品誤用の例が色々と紹介されており、読むにつれて寒気がしてくる素敵な読み物なのだが、その中でも特に「アトロピン」の文字に引っかかったのには理由がある。

 のろま、ぐず、といつも主任に罵られてばかりいて、仕返しの機会を窺っていたC眼科医は、緑内障で入院してきた高慢な女優にけなされたのをきっかけに、この二人に復讐する事にした……という小説が、小酒井不木の「痴人の復讐」だ。
 彼は自分が“のろま”と蔑まれていることを逆手に取って、わざと診断を誤り、わざといいかげんな手当をする。そして、彼女の目を検査する時に点眼する薬品がアトロピンなのだ。勿論“痴人”の彼が普通に検査などするわけがない。眼球の内圧が昂進する病気である緑内障の彼女の目に、わざと内圧を昂進させる作用をもつアトロピンを点眼するのだ。その為女優の緑内障は悪化し、眼球摘出という羽目に陥るのだが、このような薬品の誤用が現実に大問題であるのは、最初に引用した文章の通り。大わらわで手当をする周りの医師や看護婦の様子が想像出来るだろう。

「痴人の復讐」が発表されたのは『新青年』大正14年12月号。この記事を参考にした筈もなく、小説とこの資料の間には特に何の関係もない。じゃあ何で紹介するのかといえば、こっちの実例の文章の方が素直に怖いからだ。C眼科医の異常な犯罪の物語を「医学的ホラー」なんて評価する読者は多い。でも復讐心に燃える「痴人」の物語よりも、現実世界の粗忽者のうっかりエピソードの方が恐怖度ははるかに高いと思う。

 甲賀三郎は、心に戦慄も覚えないでそのような行為を平然と行う人間には感情移入出来ん、と不木作品の登場人物の在り方を批判し酷評したが、心に戦慄を覚えない、どころか単なる「うっかり」でこういう事をしでかす助手やら看護婦やらはたくさんいる、という実例をたっぷり知っている世界の住人である小酒井不木にすれば、何をぬるいことを言っているのだ、と思ったことだろう。
(記 2001/2/19)

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