母ではなく、彼女


朝から母が啜り泣いていた。
瞬間的にめんどくささを感じとって、布団を被り直したものの、結局数分後にはドアが開いて、「脚が痛いの」と泣きつかれた。
こむら返りじゃないのと言っても、そんなんじゃない、と言われ、じゃあ病院行けば、としか言えない。ラリー、続かず。
中学の卓球部の頃も、勝ちたいという気持ちがそもそもないから、ラリーが全く続かなかったな。真剣に勝負したくないから、面白半分にすぐドライブとかして自滅してた。同じ。


「普通、親のこともっと心配するでしょ」
「冷たいね」
体良く使われる普通。その普通が作用しないのには理由があるんじゃないのか。なぜその背景を想像せずに、悲劇の母親を気取るのか。
この人のこういうところ、本当に好きになれないな。
他人にやさしくされない理由をまともに考えない彼女がわたしは嫌いだ、一人間として。


彼女のことをママと呼ぶのが嫌になり、お母さんと呼ぶのも嫌になり、最近は名前にさん付けで呼んでる。一番しっくりくるから。
お互いに一個体として適切な距離感を掴めないのなら、他人だということを意識するために呼び名から変えた方がいいと思ったからそうし始めたんだけど、わりと快適。イイネ!


母にとって「わたしの娘」としてしかわたしは見られていない気がするけど、せめてわたしだけでも、「わたしの母」として甘えてしまう彼女から、距離をとろうとした故の、わたしなりの精一杯の対処法なんだけど、彼女からはめちゃくちゃに不評だ。まあそうか。
だとしても、なんだかもうこの人をお母さんと呼びたくはないなと思ってしまったから、仕方ないのだ。わたしだってあなたを名前で呼びたい。


自分がいつか母親になるかもしれないと思うと、「母親」という生き物になってしまうのが嫌だ。自分の名前を手放したくない。
だから子どもがある程度の歳になったら下の名前で呼んでほしいという気持ちがあるのだけれど、それを拒む母からしたら、「母親」という立場はそんなに心地いいものなのだろうか。
お母さんと呼ばれている限りは、自分が絶対的に必要とされてる気がするからだろうか。


なんで嫌なの、と訊いても、本人の深層心理をほじくり返した答えが返ってくることがないので、もう彼女の本心を知ろうとするのは諦めてる。


いちいちお互い言い合うのも面倒だから、最近は間をとって主語なしで話しかけてるけど、それでも伝わる日本語、便利。それでも上手く話せないときは、中国語で茶を濁してる。芸は身を助けるね。


バイト先から貰った餅を2つフライパンで焼いて(レンジで温めるよりも早く、しかも柔らかく膨らむ)、砂糖醤油で食べた。
こんなに美味しいのに、一月だけしか食べないのはもったいないような気がする。でも一年を通して食べていたら太ってしまうような気もする。どうなんだろ。


彼女は時折、よっぽど脚が痛いのか啜り泣きながら救急病院へ行く準備をしていて、こういうときやっぱり免許がいるよなとか思う。
なくても生きていけるけど、いざというとき自分や大切な人を助けられる手札というのは、あった方がいい。
合理的に考えたら、わたしも免許とっといたほうがいいんだろうな。車よりバイクの方が乗りたいけど、運動とか運転とか、そういう勘が自分にはあまりにもなさすぎる。自分のそういうところは、信用できない。


犬を散歩に連れていき、借りてきた本を少し読んで、春から入社する会社の課題を片付けて、パスタをレンチンで作って、今。

京極夏彦の小説はあまり読んだことがなかったけど、こういう捻くれてる感じの大人が個人的には大好きだ、信頼できる。
驕らず見下さず、年下にも対等に話してくれる大人。好きだ。大学の、いつも敬語で丁寧に話を聞いてくれて、丁寧に言葉を紡いでくれていた教授を思い出す。


言葉はデジタルで不完全、というワード、なんとなく言葉はアナログだと思っていたから、ずがんとやられた気持ちだった。
不完全だからこそなるべく漏れのないように過剰も不足も出来る限りないように適切な言語化に勤しんできたし、周りにもそれを求めてきたけど、
わたしより何倍も生きてきて、何倍も真摯に言葉に向かい合ってきた京極夏彦が言うのなら、たぶんそうなんだろう。
言葉は通じない。悲しいけど。


でもまあ、文章を、言葉を読み取れない人がこの世にどれだけいるかということが、SNSしてたら嫌というほどわかるね。ツイッターなんてクソリプの山だし。そういう相手にわかってもらおうとするだけ時間の無駄だし、そういうことはする必要ないんだろうけど、
だけどやっぱり、せめて目の前にいる人間には通じていてほしいと思う。無理なんだろうけど~!可能な限りは!


それでも通じない人間というのはいる、わたしと彼女のように。
それはもう、ある意味別の生命体として取り扱うしかないような気がする。わたしと彼女の辞書が違うのなら。
国際結婚する人たちって、本当にすごいな。漠然としか伝わっていないからこそ上手くいくこともあるんだろうけど。
言葉に重きを置きすぎるのはいけない、と思いつつ、結局言語化できる人に信頼を置いてしまうから、どうしようもない。


もう長らくPS4を触れていないので、久しぶりにDbDでもしようか、それともNetflixでマイリストに突っ込んだままになっている映画でも観ようと思いつつ、やっぱり起動させるのが面倒くさい。本しか読めない。

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