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礼儀はどこへ向かうのか

礼儀正しいって、何がどう正しいんだろう。

礼儀について、過去に感じたことを思い出させてくれたことがあったので書いてみる。

HalさんのBeing Politeというエッセイを読んだんだ。

これはいつものことなんだけど、Halさんの文章は、正真正銘1000字きっかりで、読みやすく、読みごたえがある。

今回のは、海外出張帰りのHalさんが書いていた。

そこに描かれた出張中の光景と、私が初めて海外の空港でお買い物をしたときのことが繋がった。


私は、ドキドキしながらレジに商品を持って行った。
英語は堪能でないので、よく分からなかったけれど、パスポートの提示を求められた。

ぺこぺこしながらパスポートを手渡した。

何かを確認して店員さんがポイっと手から放したパスポートが、レジのカウンターをシューッと滑り私の目の前にたどり着く。

これは日本なら礼儀がなっていない、と言われる行為かもしれない。

さて、どうだろう。

海外を一応、一週間ほど経験して帰路に着く前の空港で、私は自分の中の当たり前に、ちょっと待てよと声をかけた。

この店員さんは礼儀正しいのかもしれない。

無駄な動きをなくし、見事、最短で私の元にパスポートを渡すことに成功している。

お客様に対して、店員としてできることをきちんと行った。

店員としての誠意を見せたと言って良いのではないか。


向こうの飲食店では、スタッフ同士が、たわいのない会話を交わしている。実は今日、誕生日なの。なんて言うと、キッチン中が盛り上がりを見せる。
みんなが生き生き働いている。

日本なら、私語を慎みなさい、お客様に失礼だとか言われるかもしれない。


日本のおもてなしやマナー、礼儀という文化は素晴らしいと思う。
自分の相手に対する気持ち、例えば、尊敬、憧れ、感謝、愛情を、共通認識としてある形、態度で表せるのだから。

でも、現在、日本で言われているマナーや礼儀作法なんてものは、気持ちを置き去りにして、形だけが先行してしまってはいないか。

コンビニに入れば、「いらっしゃいませ」と丁寧にお辞儀される。きっと、マニュアルで角度まで教えられたりするんだろう。
人を歓迎する気持ちがあって、それを表すためには使われているとは思えない。
(まあ、商売だから仕方ないところはあるんだけど)

小学校で、挨拶をしましょうと教え込まれ、挨拶運動と銘打って、行われる「おはようございます」の連呼。
相手のことを思って、挨拶している人がどれほどいるのだろうか。

礼儀やマナー、おもてなしという、気持ちを伝えられる道具(文化)を持っているのに、ただ道具を振り回しているだけになっていないか。

そして、振り回していることを礼儀正しいと言ってはいないか。

人の目を、評価を気にして、大げさに分かりやすく振り回そうとしていないか。

別に、型に嵌(はま)った動作や形を、卒なくこなすことが礼儀正しいのではないんだと思う。
時に、結果として、それが自分の気持ちを最大限、伝える手段となるかもしれないが。

礼儀正しいというのは、相手への気持ち(尊敬や感謝など)と、形や動作が正しく、ぴたっと重なっていることを言うんだと思う。

相手への気持ちがあってこそなんだ。

そう思うと、パスポートを投げるように渡した店員さんも、楽しそうに働く飲食店のキッチンの賑やかさも、礼儀がなってない、とは一概に言えない。

日本で同じことをして、受け入れられるのは難しいと思う。文化の違いがあるから。

だからこそ、今、礼儀正しいとか、マナーが良いとか言われる行動について、文化について、考え直していきたい。

何を表すための、誰のための礼儀ですか。
正しいって何が正しいんですか。

礼儀はどこへ向かうのか。

礼儀は、自分の心から、相手へ向かっていてほしいと思うんだ。



#雑記 #エッセイ #礼儀