理想と現実(理想支持派)
人のnote、特にエッセイや日記と題されるものが好きでよく見る。
みんなは何を見据えて書いているのだろう。
現実?それとも理想?
私はどうか。
現実を見ろ。
嫌だ。
と二つ返事で答えるだろう。
現実は突きつけられる。
見なくたって勝手に突きつけられるんだから、無理に見たくないものを見なくたっていいじゃないか。
ここで言われる“現実”によって、多大な被害や、甚大な問題が起きているなら、話は別だけれど。
いや、もしそうだとしても、現実から逃げられるのなら、逃げればいいと思う。
逃げられるのに、逃げない方が不自然ではないか。
現実を見るより、理想を描いていた方がよっぽど楽しいと思う。
「理想は理想」
理想に対して否定的な表現として使われる。
でもね、理想が理想でなかったら、何なんだろ。
「理想が現実」になったら、最早それは現実なのであって、理想として機能しないのだから。
理想は理想であるべきなんだ。
現実を見ずに理想ばかり語るな、だって?
そこに実在する折り紙を見たって、何かを(例えば千羽鶴を)作りたいと思わなければ、どれだけ折り紙を見たって何も生まれないだろう。
作りたい何か(=理想)が見えて、初めて折り紙(=現実)が意味を成す。
理想を語れないから、現実を見る意味がなくなってしまうんだろうに。
理想を描く材料として、現状を把握することが必要になったなら、その時になって初めて現実を見ればいいと思う。
理想を持ち続けられるなら、それは実現可能なのだと思う。
結果論的で、ずるい言い方だが、理想を持っている、その時点では、実現の可能性をもっているに違いないから。
実現不可能な理想は、持ち続けようとすれば、キャパオーバーを起こし、必然的に理想は理想でいられなくなるから。
描ける理想はいつも可能性で満ちている。
現実を見ても、現実は変わらないが、理想を描けば、現実を変えられるかもしれない。
折り紙を見ても、千羽鶴が出来上がることはないが、千羽鶴を作りたいと想い描けば、折り鶴を折り始められるかもしれない。
ここまで書き殴って、理想を持てないことで困るという事態を無視していたことに気づく。
千羽鶴を作りたいと思えないこと、思わないことだってある。
そんな時に「千羽鶴を作れ!」と言うのは、本当に美しくない。
もし、そんな時に何か言えるのなら、「千羽鶴じゃなくていいから、折り紙を見て、それを握り潰したいと思うなら、ぐちゃぐちゃに握り潰して、折り紙が見えないところまで逃げたいなら、逃げてみて、折り紙の前でじっとしていたいなら、何もしなくていいよね」と言おうかな。
理想は、別にキラキラするものばかりじゃない。
その必要はない。
こんな思いは、私の傲慢さであり、皮肉にも理想を語りたいという身勝手さから生まれるんだろうけど。
私の文章は、理屈っぽい。
もっとどうでもいいような雰囲気で、気楽に読めるような、ユーモアに富んだ、詩のように含みを持たせた、伸びやかな文章が書きたいなあ。
理想をこぼす。
noteはキラキラ、ぐにゃぐにゃ、どろどろ、色々な形・姿をもつ理想が語られる場所なんだろう。