おっさんの話

「誤解を恐れずに言うと」と言い続け、誤解を恐れた、愛しいおっさんのお話。

おっさんというのも、彼と私は、父と子ほど年が離れている。
そんでもって彼は、私の職場のナンバー2だった。
そんなおっさんを愛しく思ったなんて、自分でもおかしな話だと思う。
ただ、彼は冗談や、いじりで笑いを生む名人だったから。
決して人を傷つけずにね。

彼は、会議で「誤解を恐れずに言うと」と、よく言っていた。
なんだか言い訳じみた言葉だし、誤解されるなら言うなよな、
と思わせるような言葉。だけど彼が言うと、違った。

その理由が分かったのは、彼が職場を離れることになり、送別会であいさつをしてくれたときだった。

普段、職場で、冗談を言い、人の失敗をいじりまくっていた彼。
あえて誰も触れない、触れられないような人の失敗について、躊躇なく、むしろ勢いよく本人に直接言う彼。
でも、いつだって責任の所在は自分においていて、失敗で人を責めないのが彼だった。それは、私たちを笑顔にしていた。

こんなことを思い出しながら、彼のあいさつを聞き、また冗談言っとるなあと思っていると、
「誤解を恐れずに言うと」。また言うた。
「私はこれからも本気でこのメンバーで働きたいと思った。」。
「このメンバーなら退職までここで留まってもいいと思った。」。
口下手の彼が精一杯、愛を込めた言葉だったと思う。

その時、やっと気づいた。彼は誤解を恐れながら、人の失敗を笑っていてくれたことを。少し考えれば誰だって気付くようなことだ。だけど、私は気が付かなかった。誤解を恐れながら、丁寧に言葉や態度を選んだ彼のせいだ。

大人になると、そして職場ともなると、相手の失敗には、なるべく触れないものだろう。大人だから。自己責任だから。仕事だから。
まして人の失敗を、本人の目の前で、笑い飛ばすことの難しさといったら。
そんな難しいことを、いとも簡単に何の嫌味もなく、彼はできてしまっていた。人が傷つくような誤解を生んではならないと、誤解を恐れていたからだ。

彼は人の失敗を掘り返し、彼自身が悪者になってくれた。
彼のおかげで、どれだけ気が楽になっただろう。何度、失敗と正直に向き合うことができただろう。彼への親しみは、ナンバー2を忘れさせ、「おっさん」レベルだった。

そんな誤解と隣り合わせの状況で、恐れずに笑っていてくれた。
一歩間違えば、セクハラだの、パワハラだの、訴えるだの言われる時代に。

だから、会議とかで少し真面目な話をするときには、誤解を恐れて、「誤解を恐れずに言うと」なんて、いつも本当は思っていることを、ぽろぽろ漏らしてしまっていたのだろう。

そして、別れの言葉で、職場への愛を伝える際には、冗談やいじりによって生まれていた誤解を恐れながら、「誤解を恐れずに言うと」と言ったのだろう。なんて可愛いやつめ。愛しいだろが。

私は別に「誤解を恐れずに言うと」という言葉は好きではない。
しかし、誤解を恐れ続けながらも、冗談といじりをやめずに、私たちに愛を与え続けてくれた、おっさんが「誤解を恐れずに言うと」なんて言っちゃうのが愛しくてたまらなかった。
強がる子どもが、オバケが怖くてたまらないのに「オバケなんてこわくないやっ!」って言っているみたいで。

誤解を恐れずに言うと、表面に現れる言葉や態度なんて張りぼてに過ぎないんだ。私はそこに潜む本心の存在を空想し、愛したい。