“1人”に

「死んではいけない」と強く言えない。
「生きていてほしい」と心から言える。

「死んではいけない」は、多数決で決まっている気がするから。

数が多いということは、それだけ妥当性が高いということだと思う。
確か、憲法改正だって多数決だ。

世の中の「やっていいことと、悪いこと」は多数決で決まっていると思う。

死んではいけない、と言われるのも多数決なら、そのうち、そうは言われなくなるかもしれないね。

でも、死ぬのを選んだ人は、多数決に入(はい)れないから、それはやっぱり実現不可能なのかな。
生きづらさを抱えていても、死にたくても、生きている人は生きている。その中で多数決を取り続ける限り、みんな生きることを選んでいる人たちばかりだ。
死ぬのを選んだ人も数に入れて、多数決をとったらどうなるだろう。
死んだ人はどこにいくのだろう。


世の中にはやっていいことと、悪いことがある。そうは言っても、世の中が決めたことは、所詮、多数決。

みんな大切にしたいのに、誰かを大切にしようとすると、反対側で誰かを蔑(ないがし)ろにする。

みんな大切にしたいだけなのにね。

少数派の意見も大切に、とは言われてきたけど、どうやって?

みんなで決めたことよりも、目の前の1人を大切にしたい。
できてない。

正しいのは、少数派の意見は反映されない、という諦めを刷り込むこと?少数意見を無理矢理のむこと?
違う。


目の前に死にたいと言っている人がいたら、その人を殺すだろうか。その人を殺すのが、多数決に拘らない優しさなのか。

私はどうする?

私は殺すことができない。
「死んではいけない」と言うこともできない。その人の意見を多数決で潰したくない。

意見が反映されない寂しさを、埋めることならできるだろうか。そんな慰めは要らない、と言われるだろうか。
意見が反映されない憤りを、鎮める方法を一緒に考えることならできるだろうか。そんな妥協案はほしくない、と言われるだろうか。
そばにいることなら、できるだろうか。ほしいのは、あなたじゃなくて、意見が反映される事実だと言われるだろうか。

「生きていてほしい」と心から言うことならできるだろうか。多数決で決めたわけじゃない。私が勝手に決めたことだ。

みんなが、みんなで生きるのが、難しいこともある。
1対1だから、感じることがある。

これから出会う人たちのうち何人を、“みんな”でなく、“1人”にできるだろうか。

“1人”に「生きていてほしい」と、私はあと何度本気で思えるのだろう。



#熟成下書き


下書きは、大体、腐って捨ててしまうのですが、捨てずに残ってました。熟成したかな。
10月31日作成
12月28日改

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