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横谷宣写真集『黙想録』についてのnote

このnoteは、横谷宣という写真家とその写真集『黙想録』について綴るものだ。といっても、横谷宣という名を知る人は多くはないし、その写真を目にする機会もめったにない。

ただ、横谷宣の写真から受けた衝撃は、それから20年以上たったいまでも余韻がさめやらない。けっして怒涛のようなインパクトではないのだけれど、しずかな水面にゆっくりと広がる波紋のように、その響きはとどまることがなく、それが今回の写真集『黙想録』のプロデュースにまでつながった。

横谷宣との出会いや、写真集の制作については、御茶ノ水のギャラリーバウハウスで2024年5月8日から開催される写真展「黙想録」についてのウェブページにも掲載されている。ここではそこに記してあること、これまでネットで書いたことなどもふくめて、より自由に、横谷宣とその写真をめぐって書いていくつもりだ。

といっても、横谷宣の写真を言葉でかみくだきすぎないようにしたい。もちろん人は言葉をつかわないと考えられないし、言葉でなければ伝わらないこともある。それでも彼がみずからの写真にキャプションを入れず、今回の写真集でも背表紙と奥付をのぞいて文字情報が皆無なのは、言葉にたよった理解を避けたいという横谷の意図だ。

これについては写真集制作チームでももめた。黒一色の表紙にはタイトルも、作者名もない。裏表紙に版元名もない。あるのは背表紙に箔押しされた「黙想録」という金文字。しかも、あえて文字を小さくして金色の輪郭を滲ませ読みづらくしている。こんなんでどうやって売れというのだ。ひとりよがりではないか。当然の意見だ。

けれども、結果的に横谷の意図に沿うことにした。言葉偏重のこの社会では、なにごともまず言葉で理解しようとする。美術館に行ってもまずは説明を読んでから作品を見る。体験よりもまず言葉による定義。言語化されることで、手っ取り早くわかった気になれる。その一方で、感じることのハードルが高くなっている。

感じることをだいじにしたい。そう言葉にしてしまうこと自体がうそっぽく聞こえるし、こうして言葉で横谷宣の作品について書いていることも矛盾をはらむことは承知の上で、言葉で語れないことはそのままにして、語れることについて語っていきたいと思う。週一で更新予定。


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