横谷宣写真展「黙想録」ギャラリーバウハウスで開催中

5月8日よりギャラリーバウハウスで横谷宣の個展がはじまった。2009年の初めての個展から15年、会場にはそのときと同じJohn Foxxの音楽が低く流れている。

作品の並びも一部、前回と同じになっている。今回発売された写真集も見てもらえばわかるが、展示とほぼ同じ並びになっているところがある。横谷によれば、自分の中にあるストーリーにもとづいているという。とはいえ、それがどのようなものなのか聞いたことはないし、彼も話さない。

横谷作品にはタイトルがついていないが、中には、そこに映っているものから、これはインドだろうとか、アジアのどこそこの遺跡だろうなど、見当つくものもある。人は無意識的に、そういうことをしたがる。初めて見たものを、既成の知識や概念と結びつけて、意識の地図に着地させて「理解」しようとする。

しかし、人はいちど「理解」してしまうと、その理解の地図の外に出にくくなってしまう。理解によってつくられた概念が、フィルターとなって、目の前のあるものを、ていねいに見ることを妨げてしまう。

横谷の写真を気に入ってくれた英国在住の方が、英国では、いま第三国に出かけて作品を作るという行為自体に文化的コロニアリズムやオリエンタリズムのような否定的なハンコが押されがちな風潮があると教えてくれた。横谷の作品が英国で公開されたなら、おそらくそうした批判が出るだろう、とのこと。

しかし、それは「第三国に出かけて作品を作るという行為」の中に問題があるのではなく、作品を現状の文化的枠組みや概念の中で理解しようとすることによって生まれる視点だ。いいかえれば、さんざん第三国を蹂躙してきた歴史をもつ自身のうしろめたさと贖罪である。「文化的コロニアリズム」は、見る者の内側にこそ存在している。

横谷の写真が飾られたギャラリーの空間に入ると呼吸がしやすくなるように感じる。最初の展示のときもそうだったし、初めて彼のオリジナルプリントを目にしたときもそうだった。呼吸が深くなるというより、息がしやすくなる。むろん個人の印象だ。なぜ、そんなふうに感じるのだろう。

横谷の作品が言葉を奪うからかもしれない。現実世界で幅を利かせている「意味」とか「解釈」とか「物語」といったものがすっかり静まり、そのかわりに言葉にかきまわされずに、深く息をつける空間が広がるからか。

他者の言葉や、既知のものさしでの納得をともなわなくても、安心して身心をゆだねられる空間。この現実世界で息が浅くなりがちなのは、そんな空間がなかなかないからかもしれない。

写真集をつくったのは、そんな息をつける空間を手元においておきたかったからだ。頭の中が言葉であふれかえり、気が高ぶったり、滅入ったりしているとき、この本を開くと言葉が静まってくれる。むろん個人の印象だ。

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