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国際女性デーに思うこと

今月8日は世界国際女性デーである。

私も、フェミとして、そして海外に住む島国NIPPON出身女性として、国際女性デーにいろいろと思うところがある。

去年は私が住む国でのコロナによる緊急事態宣言もまだ敷かれていなかったので私もデモに参加し、世界方々からやってきた仲間とともに街を練り歩き平等を叫んだ。が、今年はそうにもいかない。

国際女性デーに関して思うことは2点ほどある。

1点目は最近では日本でも国際女性デーに向けてのイベントやオンラインミーティングが目に見えて増えてきたように感じる。うれしく思う反面、女性以外の人はどれくらいこれらのイベントに参加するのだろかとも思う。

去年のデモ(タイトル画はその様子)で私が一番驚いたことは、男性も女性も、またそれ以外のアイデンティティをもつ人たちも一緒になって平等を訴えて戦っていた。そんな光景を、私は日本でももっと見たい。なぜなら女性について考えることは、同時に男性や、社会的に不安定状況下にいる人々について考えることにつながるからだ。


2点目は、国際女性デーのイベント化だ。

そもそも国際女性デーの成り立ちは社会主義、女性労働者、女性参政権の希求などなど20世紀初めの社会情勢がゴリゴリに反映された、なかなか骨太ロックなデモから始まった。

しかしながら、今ではミモザやら花を手にした男性が、バレンタインデーさながらの雰囲気で(どういう意図があって個人が花を渡すのかはそれぞれだとおもうが)女性に花を渡す光景が恒例になっている。いわば骨太ロックからのイージーリスニング状態、ロマンチックぶちかましている状態になっている。

別に花を渡すのが悪いとか、アンチロマンス!とかそういうことを言いたいのではない。だが、こういった”イベント化”や”収益化”に違和感を覚える。そしてそれは私だけではなく、デモに参加した参加者も「花はいらねええええ」と叫んでいた。

実際、「花なんかいらねえよ」的な骨太ロックな女性たちがメディアやインターネット上で発言している。花は好きだが、国際女性デーに花という「ほら、お前ら女子は花が好きなんだろ?やるよ?俺って女を大事にする違いの分かる男だろ?」的な安易な考えには反吐が出る。違いが判るのはコーヒーだけで充分である。(そういえば最近あのCM見ないね)

でもって花やプレゼントの購買行動で”収益化”するのは結構なことだが、どこに収益が行くんだろうか、とも思うのである。もし花やらギフトやらの収益が、シングルマザーの支援団体や貧困に喘ぐ子供たち、コロナ渦で失業した女性たちの支援プロジェクトなどに寄付されるのであれば、「国際女性デー」と銘打つ意義があると思う。

日本のHAPPY WOMEN FESTA https://happywoman.online/festa/iwd/ では様々な企業がプレゼント企画を打ち出していて、非常に面白い。参加している企業はSGDsへの本気度の高さをアピールできる。しかしプレゼントが化粧品やサプリメントなど美容系が多いのも気になる。ひねくれた考え方だが、「女子ってこういうの好きっしょ?」という花と同じ原理が働いているような気がするのである。もしここに、救急セットとかキッチン用品とか、非常食、はたまた木工セットやガンプラとかがあったら「いいね!使える!」と個人的には思うのだが。

私のような「花なんかいらねえよ」勢の根底には、「花はまあうれしいけどさ、花一つでごまかすんじゃねえよ」という心理がある。実際、私の父は銀婚記念日の日に花束と手紙を母親に渡していたが、母が彼との関係で悩んでいたり疲れていたのを見ていた私は、「花でごまかしやがってコノヤロー、母さんの気持ちも考えろよ」とか思っていた。でも手紙を読んだ母が泣いているのを見て、私が知らない夫婦の歴史があって私の理解の及ばないところできっと二人はいろいろなことを経験して絆を強めてきたんだろうと思った。だから手紙だろうが直接だろうが「言葉で相手に気持ちを伝える」ことが大事なのだ。

しかしながら、付き合うひとやデートをした人から物をもらったりすると本心はどうあれ「ごまかしやがって」や「はいはいヤリモクね」と思ってしまうかわいそうな人間とは私です、そうです。


以上2点から私見をまとめると

花やプレゼントよりも行動や会話で、感謝や尊敬を示したり声を上げるということだ。そんでもって国際女性デーは”女性だけ”の問題提起ではなくて、社会に蔓延している差別や不均衡を感じていれば誰でも参加していくべきだ。

そして女性は、自分の体と心を大切に、自分自身に思いっきり優しくする一日になればいいなと思う。毎日お疲れ、女でいるのって辛いこともあるよね、よしよし、と。




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