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さよならのバトン

お買い物とはつくづく体験だと思う。特に百貨店と呼ばれる場所は、少し値の張る物を買うことも多いから記憶に残りやすい。先ほど、私が懇意にしていた東急百貨店本店が閉店した。閉店することは知っていたし、閉店やむなしなご時世も理解していた。そもそも百貨店に足繁く通う世代でも無い私だけれど、それでも思い出はあるもので閉店は寂しい。渋谷の谷から少し離れた本店はガチャガチャの渦の中心にある西武百貨店と違って落ち着いて中に入ることができた。松濤住まいの奥様方や専門書を探しにきた老若男女が集う文化的な複合施設だった。隣にBunkamuraがあることで、東急本店の意義はただのデパートではなく文化の発信地としての側面も色濃くあった。私にとっては祖父母と食事をした場所であり、制服の採寸をした場所であり、父の日のプレゼントを買った場所であり、本を買う場所であった。買ったものや食べたものの具体は思い出せなくても、あんなことがあったという購買体験を重ねてきた百貨店だった。

2023年1月31日の閉店日、店内はメディアカメラも入ってたし一眼レフで撮影している趣味の人もたくさんいて、丸善ジュンク堂のレジは長蛇の列だった。いつもはいない背広のおじさんたちは、本社から着た応援だろうか。思い返せばここ数年の渋谷は喪失の歴史だ。東急東横店が無くなり、それに伴い伊東屋が消えた。待ち合わせ場所だった東横大改札も無くなり、PARCOは消えて戻ってきたけどリブロは戻ってこなかった。なんなら東急プラザも帰ってきたけど紀伊國屋は帰ってこなかった。ヒカリエやスクランブルスクエアができて109のロゴが変わり新陳代謝しているようだけど根を下ろす伝統的なものが消えて乱立するスタバとTSUTAYAと外資系ファッションブランドに侵食されていく。若者の街でありながらもおばあちゃんもそこそこいたはずの渋谷。東急プラザからおばあちゃんは少なくなった。

思い出の場所がなくなってしまうのは寂しい。実家を潰すのと似ている気がする。もうあまり必要とはしてないけれど、無くなると寂寥感が強い。そこにいてくれるだけでよかったのに、と思いながらそんな風に付き合ってきたから閉店するんだわと思う。いじめと一緒で何事も傍観者が鍵を握っている。

最後の挨拶、もちろん聞けるはずもないのに東急本店前のスクランブル交差点の対岸には黒山の人だかり。シャッターが閉まるときには自然と拍手が起きた。野次馬もいただろうし偶然通りがかりの人もいただろうけど、やっぱり思い入れがあって見にきた人もいたと思う。2027年に戻ってくるのは東急本店ではない。異なるものが帰ってくる、あの場所に。

東急本店は55年の歴史だそうだ。あと55年後には、私はスクランブルスクエアの前で同じ寂寥感を感じているかもしれない。働き盛りの私のお買い物歴が詰まったスクスクの終焉を寂しがるおばあちゃんになっているかもしれない。東急本店が教えてくれたお買い物の歴史がもたらす人生の味わい。ほら、55年後の私がこの記事を読み直している。あんなこと書いたなって。

ありがとう、東急本店。

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