見出し画像

会話もないのに通い続ける美容室

いつも通っている美容室。面白いほど、担当の人と会話が弾まない。歴代でも史上初。

最初の頃は、こちらから話しかけたり話題をふったこともあった。でも、卓球のラリーのようには続かない。ほぼ単発で、終了。

隣ではいつも店長さんが、常連さんと息を吐くように滑らかに会話をしている。その内容がなんとも豊富。それぞれのお客さまに合わせた話題からは世情すら伝わってきて、浮世床という感じで、聞いていて楽しい(こっちはシーンとしてますから、自然と会話が耳に入る入る)。

そんな私の担当さん。私以外の常連さんと、するする会話していたのを見たことあり。私も通い続けて、もう10年以上。あれ? 立派な常連さんなんだけど。

こんな私たちにも、まれに自然な会話をしたこともありました。たとえば、2011年、東日本大震災が起きてすぐのこと。

地震が起きた日、どうしていたのかとか、行列のできているスーパーやドラッグストアの話(原発事故の直後、水のペットボトルを確保するのが大変な時期があった)などなど。それくらい3月11日の出来事は、話さずにはいられない大きなものだったのだと思う。

そんなことも数えるほど。ある時から、もう自分から話題を振るのはやめた。どんなにシーンとしていても、隣の賑わう店長さん&常連さんとのコントラストがくっきりしようとも、これは相性の問題なんだと、気にするのはやめた。

さすがにその直後、異変を感じたのか、珍しく向こうから話しかけてくれたこともあったけど。

「今日はどうしますか?」
「いつものようにスッキリと、伸びたぶん切ってください」

もうほぼ必要最低限のことだけ。後は雑誌を読むのを楽しむ時間に。

画像2

言葉づかいは丁寧。接客もきちんとしている。でも、そう。愛想がさほどないというのか。

自分のまわりにそういうタイプの人があまりいないせいか、最初とまどった。

たとえば、私の母。

高校時代の友人が卒業後、うちに遊びにきたときのこと。一緒に家に向かっていると、母が庭先から私の隣にいる友人を見つけて、「○○ちゃーん」と、手を振りながら駆け寄ってきた。

友人はそんなふうに歓迎されて、いたく感激していました。

母はふっくら体型。そんなちょっと大きな体を揺らしながら、天真爛漫にハイジのように駆けてくる大人。私すら、感動しました。

画像2

いえ、いろんな人がいていいんです。とくに話好きなわけでもないんです。しかし、控えめな会話もすぐ途切れる、自分でも、なんで通い続けてるのかと時々思う。

でも、通い続けている。なぜならば(なぜならば ← 合いの手)、髪を切った直後から、数ヵ月経った後まで、スタイリングに関して全然ストレスがないのだ。

カットの技術が確かで、数ヵ月経っても毛先にバラつきなし。感覚もしっくりくる(ここは相性がいいということですね)。髪型は毎日のこと。ストレスがないのって、ものすごく快適。

先日も、ヘアマニキュアの色について、私の今の髪の状態にあった色を提案してもらえて、とてもいい感じになった。

いつも素敵に仕上げてもらっているので、毎回、素直にお礼を伝えるのだけど、担当さんはいたってクールだ。

それでも、愛想よくても仕上がりがしっくりこない人より、会話がいくら弾まなくとも心地よいスタイリングをしてくれる人の方が、いい。信頼できるプロフェッショナルな人が、いい。

技術が居心地を凌駕した。



ようこそ。読んでくださって、ありがとうございます。