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24/2/6(火) つぎの夜へ

note毎日投稿続けて1ヶ月。
だんだん意識して一日を過ごさないと
書くことがなくなってきた。
国民民主党がトリガー条項の議論から抜けるという
ニュースが一番切なかった。
ユダヤ教の教えの中で、
政治に興味を持つ人は暇な人
みたいな内容の格言みたいなものがあったと思う。
30半ばも過ぎたあたりから、
政治への関心がより高まってきた。

悲しみをつれていこう

ゆらゆら帝国の後期の曲に「つぎの夜へ」
という曲がある。
もうなんというか、、、
すごくいい曲だ。

みんな生きている限りきっと悲しみを抱いてる。
家族がいても、友達がいても、恋人がいても、
裕福でも、貧乏でも、優秀でも、平凡でも
生きている限り悲しみがつきまとう。
喜びよりも悲しみのほうが勝っている人のほうが
多いのではないか。
誰にでも夜は平等にやってくる。
夜が全てを覆い隠してくれる。
弱くて脆い心を見えなくしてくれる。
それならば
バラでもくわえながら街に出よう
歌いながら踊りながら
夜をすり抜けよう
みんな悲しみをつれていこう つぎの夜へ

みたいな曲だ。
めちゃくちゃかっこいい。。。
こんなこと言えるおじさんになりたかった。

悲しみは消すことが出来ない。
それならば、それを抱えて生きていくしかない。
もはやここまで心に同居しているのなら
それは恋人同然なのではないか。
悲しみの前では、バラをくわえてキザに決める。
悲しみの美しさに酔いしれる。
軽快なステップを踏んで、悲しみに手を差し伸べて、
闇に捕まらないように街をすり抜けていく。
そしてまた次の夜に会う約束をする。

そんな心境で悲しみと向き合えたら、
どんなに素敵だろうか。
不幸自慢をするとか、
悲劇の主人公を演じるとか、
そういうことではないのだと思う。
ただあるがままの悲しみの姿を
受け入れて、好きになって、
そして夜を共にする。

じゃあ悲しみって何なんだろう。
例えば人間関係の失敗。
自分を見つめ直すための感情なのではないか。
自分の居場所を見つけるためのきっかけなのではないか。
例えば夢破れたとき。
再起に向け自身を奮い起こすための感情なのではないか。
新たな道を見つけるためのきっかけなのではないか。
例えば大切な人との別れ。
その存在を忘れないための感情なのではないか。
それでもそばにいてくれる気がする、
そのきっかけなのではないか。

そう考えれば、悲しみを抱くことが
そのまま絶望に繋がっていくばかりとは
思えなくなってくる。
手を取り合って夜の街で
一緒に踊れる気もしてくる。

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