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杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

杉崎恒夫さんの歌集『パン屋のパンセ』(六花書林)を拝読いたしました。
印象に残った歌を引きます。

選ばれしものはよろこべシャボン玉をふくらましいる空気の役目

こんな視点でシャボン玉を見たことがなかったので、とても新鮮に感じました。
触れれば弾けてしまう膜の中に入った空気。
内と外に違いはあるのか。
主体が吸って吐いた空気が、目に見える形で飛んで行く。
それは奇跡のような光景にも感じます。
シャボン玉は必ず壊れてしまいます。
どんな「役目」にも必ず終わりが来るのだという儚さも感じられました。

さみしくて見にきたひとの気持ちなど海はしつこく尋ねはしない

さみしさという漠然とした感情で海に来た主体。
寄せては返す波が、最低限のやさしさで主体に寄り添っています。
海は、「しつこく尋ねはしない」のですが、少しは主体を構ってくれるのでしょう。
「なにがあったのかは分からないけれど、好きなだけ眺めていったらいいよ」
そんな声が聞こえてくるような気がしました。

気の付かないほどの悲しみある日にはクロワッサンの空気をたべる

ちょっとしたことで傷ついて、傷ついたことにも気づかずに、でも傷は残っている。
知らぬまに膝にできている青あざのようだと思いました。
いつぶつけたのかは分からないけれど、痛みはある。
原因は分からないけれど、なんとなく調子が出ない。
そんな時の対処法は人それぞれだと思います。
本を読んだり、絵を描いたり、音楽を聴いたり。
主体は、クロワッサンの空気を食べるのだそうです。
確かにクロワッサンは膨らんでいて、中の層と層の間に空気が含まれています。
かぶりついた瞬間に確かに空気を食べているようにも感じます。
人がなかなか目を向けないものや、名前のないものにも目を向けてしまう、主体の繊細さが際立っていると思いました。

ひとつだけクロスワードを空けておくわれのいちばん嫌いなことば

主体が嫌いな言葉がなんなのかは明かされません。
クロスワードの答えになるくらいだから、明るくて前向きな言葉なのかなと想像しました。
そこを埋めてしまえばパズルは完成するのに、主体は頑なに拒否しています。
パズルの完成よりも、自分の心情を優先する主体のことが好きだなぁと思いました。

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