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島楓果『すべてのものは優しさを持つ』

島楓果さんの『すべてのものは優しさを持つ』(ナナロク社)を拝読いたしました。
印象に残った歌を引きます。

なぜか皆しゃがむ小径をしゃがまずにかがめば顔に付く蜘蛛の糸

この歌を読んだ時、「作者はきっと不器用な方なんだろうな」と思いました。
私は基本、短歌を「主体」読みするのですが、この歌集は「島さんだから短歌にできたのだろう」と思う景が多く綴られていて、作者の気配、視点がとても濃厚に漂っています。
それが淡々と、でもバラエティ豊かに続くものですから、なんだかふっと笑ってしまいそうになるのです。
この歌もそうです。周りに合わせてとりあえずしゃがんでみればよいのに、主体は中途半端にかがんだ結果、みんながしゃがんでいた理由を直接知ることになります。
主体にとっては悲劇なのですが、ちょうどよい高さで蜘蛛の巣につっこんでしまう姿はユーモラスに感じてしまうのです。
こんな短歌が満載の歌集、面白くないわけないですよね。

5個で100円のコロッケ4個買う 5個買うときと同じ値段で

分かるなぁと思いました。
セットで買えばお得になるのは分かっているけれど、本当はセットのこれは必要ないんだよなって時ありますよね。
そこで、せっかくだからお得な方を…とならずに、「私に必要なのは4個なんです」と頑なになってしまう主体。
お得さに乗っかってしまえばいいのに、「とりあえず」とか「せっかくだから」とかそんな中途半端なことはこの主体はできないのです。
やはり不器用さを感じました。

脳内でシミレーションした会話とは返事が違って話せなくなる

これも分かりますねぇ。
私も昔、「あなたは相手の返事を予想しすぎている」と言われたことがあります。
その時から、会話は流動的で、自分と相手の気分でいくらでも変動するのだと理解したのですが、この主体も同じ問題でつまづいているようです。
「会話」をしようとするならば、相手の自由を狭めず、余白を持って応じなければならない。
こう書いてみるととても難しいことをしているような気がします。
みんなどうやって「会話」してるんですか?と聞いてみたくなりますね。

少し前までは誰かがいたという事実を受け取っているお尻

ありますよねぇ。
電車で座った時にじんわりと他人の体温が伝わってくること。
それを不快だと感じることはあれど、「誰かがいたという事実」と描写してしまうのがすごいと思いました。
この歌も島さんの感覚だなぁと思う一首でした。

優しさをもってすべてに接すればすべてのものは優しさをもつ

歌集の最後の歌です。
これは祈りの歌ではないかと思いました。
今まで私が優しさを感じなかったのは、私が優しくしなかったからだ。
先に私が優しくすれば、世界は優しさを返してくれるはず。
切実で、一心で、でもどこかマイペースに生きている主体の姿が思い浮かびました。

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