杉﨑恒夫『食卓の音楽』
杉﨑恒夫さんの『食卓の音楽』(六花書林)を読みました。
印象に残った歌を引いていきます。
「背広」ということは恐らく、主体は会社勤めでしょう。
休みの日でしょうか。
背広は風に乗り、影が楽しげに踊っています。
悔いのない人生を歩んでいる人はまれです。
「あの時、別の道を選んでいたら今ごろは…」と夢想してしまうことは、誰にでもあるのではないでしょうか。
主体も、時々過去を振り返っては、苦い思いをしているのだと思います。
でも、そんなことは関係なく、主体が着ていたはずの背広の影は楽しげです。
「悔などはない」と言い切ってしまうことで、主体は自分が持っている「悔」を客観視します。
そして、自分が進む道を冷静に見つめているように感じました。
なんてさびしい歌なのだろうと思いました。
沈黙する樹木たちに、主体は何かを必死に伝えようとしています。
「どのように話しかけても」ということは、優しく話しかけたり、怒って話しかけたりと、色々な手を尽つくしたのでしょう。
残念ながら、樹木たちに言葉は届きません。
主体の言葉は、冬の冷え切った空気に消えていきます。
「冬の」ということは、もしかしたら春になるのを待てば、樹木たちに言葉は届くのかもしれません。
でも、今届けたい言葉がきっと主体にはあるのでしょう。
諦めきれない主体の後姿が、見えるような気がしました。
主体は、今は平和な人間関係に恵まれているのでしょう。
現状に満足している、幸せを感じている主体。
でも主体の中には消えることのない「人間不信」があります。
「わがうちに」ということは、周りではなく、自分自身の問題だと主体は感じています。
自分が「人間不信」を持っていることを、温かい周りの人たちには、恐らく悟らせないようにしているでしょう。
人間は信用するに値すると、主体はもう知っています。
きっと主体はこれからも、人と関わって生きていくでしょう。
それでも、忘れられない傷みはあるのだと、結句の「いっぽんの針」が表現しているように思いました。
とても切実な歌だと思いました。
どうして主体には、噴水に意思があるように見えたのでしょう。
それは、主体が自身の境遇と重ね合わせて、噴水を見つめていたからではないでしょうか。
願いに向かって、懸命に手を伸ばす主体。
しかし、その願いは叶わないと主体は思っています。
空に届かない噴水に、意味はないのでしょうか。
そんなことはありませんよね。
一瞬、一瞬、異なる形をする噴水は、見る人を楽しませています。
叶わない願いに手を伸ばす主体を、きっと誰かが見ているでしょう。
主体の切実さ、誠実さ、真摯さに、胸を打たれている人がいるかもしれません。
今は孤独を感じている主体が、どんな形であれ報われる日が来ることを、信じたくなる歌だと思いました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?