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Twitterをやめて気付いたこと

Twitterをやめて3か月経った。
2年以上毎日投稿していたSNSを辞めるのは、それなりに大きな決断だったけれど、今となっては、やめて良かったと思う。
色んな人と知り合えて楽しかったし、twitterのご縁がきっかけで今もお付き合いが続いている人も何人かいる。でも同時に、何かわからない息苦しさを感じていたのも事実。ちゃんと毎日作ってるか、きちんと向き合っているか、そんな謎の圧力をうっすら感じながら、みんなにとって不快でないような投稿を心掛けていた。今思えば、すごすぎると感じる人が多すぎて、萎縮しながらも、その人達に認められたい一心で、めちゃくちゃ頑張ってたんだと思う。でも頑張れない日も、もちろんある訳で。今はそんな自分も出せるけれど、当時は、出せなくて、それがしんどさの一大要因になっていたと思う。自縄自縛ですね。

今はちょうど、子供達の夏休み中なので、1日、1日を頑張らずに過ごす。ただでさえ暑いのに、頑張って無理すると、晩ご飯を作る時間帯にはイライラしちゃって、そうすると家族の雰囲気がとたんに悪くなる。そんな事になるぐらいだったら、やるべきことの1個や2個あきらめて、スパっと昼寝でもした方が、うんとマシだなぁと、考えて行動できるようになった、というより、何もしない選択肢が自然に生まれた。

その選択ができるようになったのも、twitterを辞めたおかげだと思う。もっと言うならば、スマホからinstagramのアプリを削除して、尚且つyoutubeや検索エンジン等の使用時間の制限をかけたおかげでもあるかも。なぜそんな事をしたかというと、単純にそうしたかったから。生産性を上げるため、とか、SNS断捨離してTODOに集中、とか、そんな高尚な目的のためじゃなくて、それらに囚われていない時間の過ごし方が、自分にとっては、ものすごく甘美で自由に感じたのだ。そう気付けたのは、7月中旬から下旬にかけて、使用量オーバーのため、外出先でスマホのWi-Fiが使えなくなった期間があって、その時に、ただ海を本当に自分のためにボーっと見ることとか、本当の意味で制作に集中することとか、ちょっとした子供の表情の変化とか、そういう何でもない事が、どれだけ豊かであるか気付けたというか、大事な感覚を取り戻せたのだと思っている。

喜怒哀楽、何でもSNSでシェアできる時代にあって、それはとても素晴らしい事だけど、自分的には、毎日はきつかったみたい、ということに、twitterを辞めてみて今更気付けたのだ。そもそも内向的な性格ではあるけれど、人好きな面もあるので、時々、気が向いたときにSNSをする、それぐらいの距離感が、今はちょうど良い感じ。そのほうが、ちゃんと作品にも向き合えるし、紹介もしてあげられる、一人一人の人をちゃんと想える。それで、なんだそんなものかと離れる人がいても、面白いと思ってくれる人がいれば、とても嬉しいし、長いお付き合いができればなお嬉しい。

自分を売り込むのはとことん苦手だから、そこにしがみついたり、くよくよしたりせず、そこはすっぱり手放して、目の前の事を一つ一つ、丁寧に、ただ創るべし、それはめちゃくちゃ得意だから、そうすることに決めたら、Instagramの投稿もちょっと変わってきたような気がする。スマホからアプリを消したおかげで、ストーリーはアップはできなくなったけど、そのせいもあってか、例えば何で今この写真撮ってるんだろう?って、行動一つ一つの意味を考え直すきっかけにもなった。つまり、映えからはとっても縁遠くなった。それでいいのだ。

そういう訳で、Instagramは時々投稿ということで落ち着きそうです。
standFMは、しゃべるの下手だし、たまにやらかすしで、どうしようか少し悩んだけれど、遠くに住む親友が楽しんで聴いてくれてるのが地味に嬉しいのと、自分の声で、その時の思いを言葉にするというのは、合ってる・間違ってる関係なく、大事なことだと思うので、続けてみようと思う。
noteは今まで通り。
そんな感じで、これからもSNSとの関係を、自分なりの距離感で続けて行こうと思います。


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