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丘の上の愛とやらを


―五月六日、夕暮れ時。


わたしはとうとう、父の目の前で穏やかに泣き腫らすことをしました。

根本にある障碍を晴らすことは出来ずとも、しとしと、から、ざあざあ、まで、ゆっくりと時間を掛けて、哀しみを降らしたのです。



いつか話せたら、と思っていたこと。指を端から折っていけば、片手では間に合わないほどには積もり積もっていました。


『努力することは、手放すこと』

どこかで拾ったそれのことだけを、長いこと考えていたけれど、まだ分からないままでいます。


感じたくもない感情、違和感、蟠り。

それらを追いやることをせず、ただ長いこと向き合ってみると、じんわりと、指先に伝うものがある。痛みを伴う再生だとか、祈りを伴う供養だとか、上手く喩えることは出来ないけれど、そんなふうな感覚は分かってしまうから、もしかしたら今日がその日だったのかもしれません。

また、その“いつか”が来なければ上手く流れることの出来なかった、また別のところに隠れていた感情(ちいさな大人の影に隠れるおおきなこどものように、じっと、待っていたのでしょう) 、

それらもあれよあれよと後を追って、わたしの凹凸をするりと滑っていく。

けれど、その様をじっと見つめながら、一遍に放出された声と涙に中々止まないなあと途方に暮れるばかりで、ただ時間だけが過ぎていきました。



すると、彼の手が膝元まで伸びてきて、とんとん、と、やさしく刻むのです。

とんとん。大丈夫だよ。

とんとん。私がここに居るよ。

とんとん。気の済むまで、ね。

鼓動よりも、すこしだけゆるやかな速度と強さで、背中を擦るよりも、胸に抱くよりも、頬を撫でるよりも、すこしだけ遠目がちのやさしさで。それらが、やわらかく、惜しみなく、わたしを押し広げていく。ひどく、懐かしい感情。

ああ、傘を差すことばかりがやさしさではないのだと、ただ、じっと口を噤み隣で雨宿りをする彼の愛を、わたしはとても長いこと享受してきたのだな、と今更気が付いては、いつの日かふたりで眺めた夕陽と、いつの日か訪れるであろう哀しみの暮れを想って、また、大地を濡らしました。




さて、今はというと、台所にふたり立っています。仕込んでおいたピーマンの肉詰めの仕上げは任せて、茄子とトマトのグラタンの準備に取り掛かるところ。美味しく出来るかな、出来るよね、きっと―。


先程の、ものの数十分が産んだものを問われれば、一度の静寂と、一つの結び目くらいのものです。

けれど、時計の針には刻めない、わたしたちだけの時間がそこにはありました。

そして、近い将来そのなだらかな丘に芽吹くであろう安寧が、そこに注がれ続けるであろう希望が、未来をみずみずしく潤してくれるのだと、わたしは知っています。(不確かな未来への確かな予感というものは、大切に仕舞いたいものね)


そうね、その時が訪れた暁には、今度はわたしが彼の肩をちいさく叩いて笑ってみたいなと、晴れやかに思うばかりです。


とんとん、と、幾分やさしく。




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