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僕たちの戦争

人間はなぜ人間を産み、子育てをするのかを自分なりに咀嚼しながら毎日を生きている。


ここ1ヶ月、体調も精神も不安定な状況が続いていた。といっても、これまでの状況よりははるかに良く、ただただ自宅で安静にしていただけだ。そんな中で、自分はこれからどこに向かっているのかを考えるようになった。そして、ぴったりきた言葉が「戦争」だった。

戦争中、死を覚悟する場面に時折登場する描写は兵隊たちがハイになること。自分の存在よりも大きな存在に敬意を示し、自分の命を捧げて立ち向かう。その行為は、たとえ自分の命がなくなろうとしても、名誉であると捉えられる視点もある。兵隊によっては、こんなのは間違いだ、と抵抗する人もいる。人それぞれ感じ方は様々なのに、社会という大きな括りでのラベルは尊いことなのだ。

この構図がまさに女性が経験する妊娠と出産なのかもしれないと頭の中でガチっとはまった。マタニティハイという現象も、神風特攻隊が死に向かうことで一時的なハイになる状態に類似していることだと捉えれば、別にめくじらを立てる必要もないと思えてきた。


今日は久しぶりにひとりで出かけている。
ひとりだけど、ひとりじゃない感覚。
それはときには彼だったり親だったり、子どもだったり。離れていても何かそこにある存在と一緒にいること。自分は今一人だと思っても実は誰かと繋がっていること。
「全は一。一は全」を体感していくことが命を産む行為の意味なのかな、と。

そこに意味はなく、ただただ自分よりも大きいものの存在に私たちは生かされているだけなのかもしれない。

締まりがいいところで終わりにしたいが、なぜ私が自分よりも大きな存在があると認識しているのか、それを少しだけ。
ずばり、自分よりも大きな存在の立場にたち、決断をしたことがあるからだとおもう。最近読んだ「アカギ」のセリフに「地獄の淵の砂を触る」という表現がある。それに触れると破滅と幸運がひっくり返るという。

この感覚をずっと忘れずに生きていきたい。


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